ISSN 1349-7162

テクスト研究 Journal of Text Studies 第10号

テクスト研究学会 2013

目次

“spinster”たちの青春―戦間期イギリスにおける女性の自立と挫折― ……………………………………………………………………………………畑中 杏美

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I Love Lucy における言語的ギャグの機能について―“The Girls Want to Go to a Nightclub” に即して―………………………………………………………………………高木 ゆかり

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村上春樹「アイロンのある風景」を読む―Jack London, Raymond Carver との間テクスト性からの 研究………………………………………………………………………………山根 明敏

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欽定訳聖書における Rose of Sharon ―どのように「誤訳」が生じたのか― ……………………………………………………………………………………溝田 悟士

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編集後記 ……………………………………………………………………………………鈴木 章能

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“spinster”たちの青春 ―戦間期イギリスにおける女性の自立と挫折― The Prime of “Spinsters” in the Interwar Period in Britain: A Study of Early Feminism in Muriel Spark’s The Prime of Miss Jean Brodie and D. H. Lawrence’s “The Fox” 畑中杏美 Azumi HATANAKA Abstract From the latter half of the nineteenth century to the beginning of the twentieth century, women had outnumbered men, and the sex ratio in Britain became out of balance. Both in England and Scotland, emigration and the Great War made matters worse, and women were forced to change their way of living. These increasing numbers of spinsters were so outstanding in the interwar period that they can be seen in novels. In Muriel Spark’s The Prime of Miss Jean Brodie (1961), Miss Brodie, an Edinburgh spinster, is in her prime in the 1930s, and in D. H. Lawrence’s novella, “The Fox” (1923), the two women running a farm are known as Land Girls, the women who supported the war effort to produce food all by themselves. This paper points out that both novels exemplify how these spinsters struggled to live throughout the period, and makes clear why they failed to realize their visions, focusing on their masculinization and implied lesbianism.

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はじめに 19 世紀半ば以降,イギリスでは,国外移民の増加により,男女の人口比のバランスが崩れ,未 婚のまま生涯を終える女性も増加していた.さらに,第一次世界大戦によって多くの成人男性が 命を失ったことにより,20 世紀初頭はイングランドのみならず,スコットランドでもいわゆる婚姻適齢 期を過ぎた独身女性の増加が深刻であった 1.そのことは〈新しい女〉と呼ばれる女性の台頭や, 女性参政権獲得を目的としたフェミニズムの運動の背景として考慮されるべき現象であり,文学作 品に登場する女性の描かれ方にも変化をもたらしたとされている.本論考では,1930 年代のエデ ィンバラを舞台としたミュリエル・スパーク(Muriel Spark, 1918-2006) の小説『ミス・ブロウディの 青春』(The Prime of Miss Jean Brodie, 1961)を,戦中および戦後に増加していた独身女性が 登場するテクストとして扱い,第一次世界大戦直後に執筆され,改定後出版された D. H. ロレン ス (D. H. Lawrence, 1885-1930) の中編「狐」 (“The Fox”, 1923) を,同じく独身女性が登場 するテクストとして参照することで,イングランド,スコットランドにおいて自立や自活を試みた spinster がどのように描かれているのかを考察していく.特に,この論文では,2 つの作品に登場 する spinster たちが自立や自活を試みる中で,ある種の男性化という形を取っていったことを次 の順に指摘していきたい. まず,ブロウディが当時多くいた革新的な思想に走る傾向を持った独身女性の一人であったこ とをテクストから読み取るとともに,先行研究を参考に,『ミス・ブロウディの青春』において,女子校 教師のミス・ブロウディがファシズムを称揚したことを,内面的な価値観の男性化として読み解く. 次に,同じく戦間期の spinster が登場するロレンスの中編「狐」を参照し,中心となる登場人物の マーチ (March) についても,男性化の特徴を読み取る.「狐」においては,マーチが男性役を 務めている一方で,農場の共同経営者であるバンフオード (Banford) は女性の役割を付与され ていることに着目し,この二人の間に示唆されるレズビアン的な関係を指摘する.そして,『ミス・ブ ロウディの青春』にも同様のレズビアン的関係が読み取れることを示し,これらの作品に読み取れ る戦間期フェミニズムの問題点をあぶりだしつつ,さいごに『ミス・ブロウディの青春』に描かれた, 独身女性の“prime”という点に光を当て,この時期の spinster たちのフェミニズムにおける功績に もふれて,まとめとする.

1.The Prime of Miss Jean Brodie: 1930 年代スコットランドの spinster 1-1. “spinster”として描かれるブロウディ 『ミス・ブロウディの青春』は,スコットランドのエディンバラを舞台に,マーシア・ブレイン女学園 (Marcia Blaine School for Girls)で,1930 年代に人生の“prime”を迎えているジーン・ブロウ ディが,6 人のお気に入りの生徒たち(Brodie set)と過ごした学校時代が中心的に描かれる.本 論文の冒頭でも触れたように,物語に描かれている当時のイギリスではいわゆる「女余り現象」が 社会問題となっており,第一次世界大戦はこの状況に追い打ちをかけた.ミス・ブロウディもまた, 婚約者のヒュー・カラザーズ (Hugh Carruthers) が戦地で帰らぬ人となり,大戦が終わったころ には 30 歳近くになっていたし,ブロウディ・セットに初めて自分の型破りな授業をしてみせたときに

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はすでに 40 歳を超えていた. 小説のタイトルから示唆されるように,ブロウディは“Miss”のまま生涯を終えるのだが,登場人 物や語り手も,彼女が spinster であったということを繰り返し示している.特に,語り手は,突飛で 風変わりな印象を与えるミス・ブロウディを,当時の独身女性としては珍しくない,どちらかといえば 典型的な“progressive spinsters of Edinburgh”の一人として位置づけている.エディンバラの 革新的 spinster は,裕福な商人や聖職者,大学教授等といった中産階級の職業人を父親とし, 彼らから教育や私有財産を受け継いでいる比較的裕福な娘たちなのであった(Spark 42).彼女 たちのような独身女性は,新進気鋭の思想に触れるために講義に出かけ,自ら運動に携わり,男 性と産児制限についての議論を交わし,海外を旅行して見聞を広めるなど,活動的で忙しく,通 例としては,学校教師などの職業は選ばない.ミス・ブロウディは,保守的な spinster が集まる女 学校の教師という職業に就いてしまったがために孤立し,カリスマ的な魅力で生徒たちをひきつけ ることができたのであるが,語り手は,彼女を極端へと導くことになるブロウディの内面的な特徴に ついて,次のように述べている.

And so,seen in this light, there was nothing outwardly odd about Miss Brodie. Inwardly was a different matter, and it remained to be seen, towards what extremities her nature worked her. Outwardly she differed from the rest of the teaching staff in that she was still in a state of fluctuating development, whereas they had only too understandably not trusted themselves to change their minds, particularly on ethical questions, after the age of twenty.

(Spark 43)

社会状況をふまえ,エディンバラ全体を俯瞰すれば,その時代にはブロウディのような spinster が大勢いたことを読者に伝えつつ,語り手は,ミス・ブロウディが,内面的な特徴,特に倫理感にお いては他と違った考え方を持っており,未だ発展の途上にあったという点が他の教師とは異なって いたのであるとしている.なかでも他の spinster とは異なるブロウディの特徴として,ファシズムへ の傾倒という男性的・父権的価値観への共鳴という要素が挙げられるのではないだろうか.

1-2. ブロウディ・セット:ブロウディのファシズムが目指すもの ブロウディ・セットは,10 歳のときからミス・ブロウディのお気に入りとして,ほかの教員が教えな いような知識を授けられてきた.占星術や肌の手入れ,初潮についてなど,10 代の女生徒が興味 を持ちそうな話題と織り交ぜて,彼女たちが繰り返し聞かされてきたのはイタリアのファシズム,ムッ ソリーニと黒シャツ隊の話である.ブロウディは,黒シャツ隊の写真を壁に貼り,子供たちに “fascisti”の綴りを教え,「ムッソリーニは世界一えらいひとです」( “Mussolini is one of the greatest men in the world”)と臆面もなく独裁者をほめたたえている(Spark 44).しかし,ブロウ ディ・セットの一人,サンディ・ストレンジャー(Sandy Stranger) は,ブロウディにとって政治は “side interest”であると感じている(Spark 124).

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ミス・ブロウディのファシズム賞揚について言及した先行研究では,サンディの意見を支持し,ブ ロウディの主義主張はたんなる無責任で表面的な興味であると考えるという立場に立つ論者が多 い 2.その一方で,Judy Suh は 1930 年代の政治情勢を鑑みて,英国ファシスト党の演説を参照 し,ミス・ブロウディが掲げたファシズムに歴史性とフェミニズム的側面を読み解いた.英国ファシス ト党( BUF [the British Union of Fascists])は,選挙権を持った国民である女性と国家との新し い関係や,政治的大衆としての女性という側面を強調する一方,女性たちに家庭内労働を奨励し, それが給与を支払われる仕事と同等に国家が認めている市民労働の一形態であるとした.Suh によれば,この政策は,公的領域を拡張し,女性をその中へ取り込むという建前で,より大きな国 家という権力への服従を強い,伝統的な性役割を保存するためのものであった.ミス・ブロウディの 教育も,生徒たちに革新的な教育を授けているかのようでありながら,大義への自己犠牲という美 辞麗句で生徒たちに服従を強いている点が英国ファシスト党と共通している.また,生徒たちのほ うも,独断的でしばしば理不尽ですらある先生に異議を唱えることなくむしろ喜んでつき従ってい るという点にもファシスト党との共通点が見出せる.ブロウディのファシズムは,カリスマ的な権力者 に同意し服従する大衆という,イタリア・ファシズムに顕著な特徴も持ち合わせているのである (Suh 95-7).伊田久美子は,イタリア・ファシズムによって女性たちが職業から締め出され,物理 的・社会的に家庭を再生産するという役割のみを要求されたにもかかわらず,ファシズムにある種 の「同意」を示したことについて,マリア・アントニエッタ・マッチョッキの『黒い女―女の同意とファシ ズム―』を参照し,次のように述べている.

それでも 1936 年(第二次大戦勃発)までは女たちのファシズムへの「同意」は存在していた, とマッチョッキは述べる(前掲書).彼女によれば,カトリシズムの禁欲主義の下で性的フラストレ ーションに陥っていたイタリアの女たちは,「三つの M(ムッソリーニ Mussolini, 男 Maschio, 夫 Marito)」として登場したカリスマ的男性像に,少なからぬ魅力を感じてもいたというのであ る.第一次大戦後の戦没者の母や戦争未亡人,傷痍軍人の妻や母に,古代ローマの良妻賢 母コルネリア,貞女ルクレツィアなどの女性像を重ね合わせ,「傷ついた祖国のために」女たち の犠牲を要求するムッソリーニの演説は,(犠牲が再び現実のものとなる第二次大戦勃発まで は)多くの女たちの大衆的支持をえたのである. (伊田 58-9) ムッソリーニを手本とするブロウディは,ファシズムの男性的側面,父権的権威に従属する女性た ちという構図を利用して生徒たちを服従させているのではないだろうか.彼女は,「私があなたたち に献身したように,あなたたちも献身的な女性になること」 ( “You must all grow up to be dedicated women as I have dedicated myself to you” ) (Spark 63)を生徒たちに求めていた. 自分の生涯を奉じて生徒たちを教育するという自己犠牲のパフォーマンスは,大衆がカリスマ的 な支配力に屈服することで一つになりたいと願うマゾヒスティックな欲求を刺激し,支配者と被支配 者の間の絆だけでなく,被支配者である大衆同士の絆をも強固なものにするのである(Suh 97). ミス・ブロウディに導かれ,当時スラムと化していたエディンバラの旧市街を歩きながら,サンディ

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は自分を含めたブロウディ・セットについて,次のような考えに思い当たる.

The sound of Miss Brodie’s presence, just when it was on the tip of Sandy’s tongue to be nice to Mary Macgregor, arrested the urge. Sandy looked back at her companions, and understood them as a body with Miss Brodie for the head. She perceived herself, the absent Jenny, the ever-blamed Mary, Rose, Eunice, and Monica, all in a frightening little moment, in unified compliance to the destiny of Miss Brodie, as if God had willed them to birth for the purpose. She was even more frightened then, by her temptation to be nice to Mary Macgregor, since by this action she would separate herself, and be lonely, and blamable in a more dreadful way than Mary who, although officially the faulty one, was at least inside Miss Brodie’s category of heroines in the making.

(Spark 30)

サンディは,ミス・ブロウディの指揮下に置かれているとき,不器用で鈍く,叱られてばかりいるメア リー・マックレガー (Mary Macgregor) に優しくしようという気持ちが抑えられてしまうのを感じる. ブロウディ・セットは「ブロウディ先生を頭とするひとつの身体」なので,メアリーに優しくすることで, 自らに与えられた役割を外れ,そこから切り離されることに恐怖を感じているのである.一見すると, このように集団の調和が強制されることは,チーム精神(“team spirit”)という理念に反発していた ミス・ブロウディの美学と矛盾しているようにも思われる.実際ブロウディ・セットにチーム精神という ものが皆無であることは学園内で知れわたっていたようであるが (Spark 6, 79),ブロウディ・セット とは対照的に,チーム精神の権化とされているのが,ガールガイドに所属している女生徒たちであ った.鋭い観察眼を持ったサンディは“[p]erhaps the Guides were too much of a rival fascisti”(Spark 32) と考えているので,ミス・ブロウディが学園の女生徒の多くが参加しているガ ールガイドを軽蔑して,ファシストを礼賛することに矛盾を感じていた.しかし,ガイドの理念とブロ ウディが目指すファシスト党の理念には大きな溝があったのだと思われる. 第一次世界大戦以降のガールガイドは子供たちの自主性を養いつつ,皆が皆のために努力を するための学外活動を通して「市民としての女性」を育てることを目的としていた 3.対照的に,ブロ ウディ・セットの 6 人はそれぞれが“famous for something”(Spark 6)ではあるものの,得意なも のや性格,個性がばらばらにカテゴライズされている子供たちである.もちろん,ブロウディ・セット も,ブロウディがそこに居るときには,彼女の元に結束することが強いられており,サンディは集団 圧力を感じてすらいるが,その圧力は自主的に仲間に優しくし,助け合い,協力して物事を成し遂 げようとする動機づけにはなっていない.セット 6 人の唯一の共通点はミス・ブロウディに恣意的に 選ばれたことと,彼女に服従し,彼女が教職を保つために暗躍するという合意である.ミス・ブロウ ディは自分の“prime”をブロウディ・セットたちに捧げる代わりに, “[g]ive me a girl at an impressionable age, and she is mine for life.” (Spark 9)と,多感な時期の女生徒たちを自分 のもののように扱い,主導権を得ることに喜びを見出しているのである.ファシズムを掲げることで

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父権的価値観に共鳴するミス・ブロウディは,付き従う女生徒同士がお互いを個人として尊重しあ うことも,子供たち同士で協力し合って何かを成し遂げることも特に望んでいない. ガールガイドが目指していたものが,平等な仲間同士が協力することで堅固な共同体を形作る こと,ひいては独立した個としての女性という市民意識を共有して愛国心を高めるという点で革新 的なものだったとすると,ブロウディ・セットは従来の父権制の再構築をしてしまっている点では保 守的であるといえる.しかしながら,Nina Auerbach が指摘しているように,1930 年代に組織だっ て行動するようになった女性たち,そして集団を率いる女性の統率者というのは実際に際立った 動きを見せ始めており,その姿はファシズムの体制やファシストと重ねられ,アメリカではそれを風 刺する内容の本も出版されていたようである 4.ミス・ブロウディがファシズムを掲げていたことを,ナ イーヴな妄言として片付けることなく考えると,彼女は当時の世相を反映した,内面的な男性化を 目指した spinster のひとりであると考えられる. 2.男性化する女性とレズビアニズム: D. H. Lawrence,“The Fox” (1923) 前節では『ミス・ブロウディの青春』におけるファシズムをミス・ブロウディの内面的な男性化として 考えたが,戦時中や戦間期においては,労働領域や衣服の変化ということについても男性化と見 られる動きがあった.D. H. ロレンスの中篇「狐」では,もうすぐ 30 歳になるマーチとバンフォードと いう,農場経営をしている独身女性二人が登場する.彼女たちは Land Girls もしくは Womens’ Land Army と呼ばれる,農場開発のボランティアとして活躍した女性であり,イギリス国内で男性 の労働力が不足しているなか,男性に依存することのない生活を試みた女性たちとして知られて いる 5.二人の農場にやってきた帰還兵のヘンリー・グレンフェル(Henry Grenfel)がマーチの服 装を“a land-girl’s uniform” (Lawrence 48)と呼んでいることから,マーチは特にその典型的な 服装をしていたようである 6. 華奢で身体が弱いバンフォードの代わりに,がっしりとした体つきのマーチは農作業用のズボン をはいて,イズリントンの夜学で学んだ大工仕事をこなし,銃を片手に害獣を駆除しに出かける. 語り手もマーチについて“[s]he would be the man about the place.” (Lawrence 7)としており, マーチとバンフォードは屋外労働と屋内労働を分化させ,男性的役割と女性的役割をそれぞれ 分担していたということがわかる.マーチとバンフォードは,男性の助けを借りず,中産階級の女性 二人だけで自立して暮らし,できれば余暇を作って自由な暮らしを楽しみたいと考えていた.しか し,2 人の農場経営は 2-3 年でほとんど頓挫してしまう.仔牛の飼育の失敗や,鶏が卵を産まない という問題に加え,秋の夜の農場の,不毛で陰鬱な雰囲気は,二人の女性にとって耐えられない ものだった.そこに,かつて農場の持ち主だった老人の孫のヘンリーがやってきて,マーチに婚約 を迫ると,マーチはバンフォードとの同性愛的な関係と,ヘンリーとの結婚との間で揺れ動くことに なる 7. 2-1. “soft”なヘンリーとマーチの変化 帰還兵の青年ヘンリーについては,繰り返し用いられる“soft”という言葉が“weak, effeminate,

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unmanly” (OED,“soft” 14.b.)の意味を想像させるためか,しばしばホモセクシュアル的傾向を 指摘されることもある.しかし,たとえば次の引用では,男性であるヘンリーと,彼の闖入におびえ る女性たち,という構図が対照されていると考えられる.

Suddenly

both

girls

started,

and

lifted

their

heads.

They

heard

a

footstep―distinctly a footstep. Banford recoiled in fear. March stood listening. Then rapidly she approached the door that led into the kitchen. At the same time they heard the footsteps approach the back door. They waited a second. The back door opened softly. Banford gave a loud cry. A man’s voice said softly: “Hello!” March recoiled, and took a gun from a corner. “What do you want?” she cried, in a sharp voice. Again the soft, softly-vibrating man’s voice said: “Hello! What’s wrong!” “I shall shoot!” cried March. “What do you want?” “Why, what’s wrong? What’s wrong?” came the soft, wondering, rather scared voice: and a young soldier, with his heavy kit on his back, advanced into the dim light. (Lawrence 13 下線筆者) 下線部で示したように,ヘンリーはたしかに“soft”という言葉を伴って登場するが,彼ははじめ,2 人の“girls”に足音と声でその存在を知らせていることがわかる.ヘンリーの“man’s voice”は,お びえたような響きがありながらも低く静かな声で話しかけている(“said”)のに対し,バンフォードはド アが開いただけで“loud cry”をあげ,マーチの応答もまた“cried in a sharp voice”という言葉で 表されている.またこの先の箇所でも,ヘンリーについては“soft”という単語がついてまわるが, “soft”という言葉が付されているのは主に彼の声についての説明である 8.ヘンリーの“soft”な声 は,男性化した“robust”なマーチを軟化させる落ち着いた声,優しく歌うような誘惑者の声なので はないだろうか 9. 一方のマーチは,ヘンリーが滞在している間は,肉体の女性的特徴がたびたび強調される.魅 力的な瞳,豊かな黒い髪,柔らかな胸など,彼女を性の対象として見るヘンリーの視点が生まれ たため,マーチの男性的要素ははぎとられていき,ついに,マーチはズボンではなく,ドレスを着 て彼の前に現れる.

No, she was another being. She was something quite different. Seeing her always in the hard-cloth breeches, wide on the hips, buttoned on the knee, strong as armour, and in the brown puttees and thick boots, it had never occurred to him that she had a woman’s legs and feet. Now it came upon him.

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She had a woman’s soft, skirted legs, and she was accessible. He blushed to the roots of his hair, shoved his nose in his tea-cup and drank his tea with a little noise that made Banford simply squirm: and strangely, suddenly he felt a man, no longer a youth. He felt a man, with all a man’s grave weight of responsibility. A curious quietness and gravity came over his soul. He felt a man, quiet, with a little of the heaviness of male destiny upon him. (Lawrence 49 下線筆者) この引用箇所の直前でヘンリーは,マーチの“soft, creamy cheek”, “soft (woman’s) breasts” を夢 想 していたが ,ドレスを着 て登 場 した マー チの 姿も “soft”と い う言 葉で 表 現 され ている (Lawrence 48-49).柔らかな素材のスカートと,それが纏わりつく足は,これまで彼女が着ていた 鎧のような硬い布地の服および,それに隠された肉体と対照される.対して,ヘンリーは,“soft and womanly”(Lawrence 49)になったマーチを見て,自分が男であるということ,「男の責任の 重さ」を感じ,“heaviness”を身につける.ヘンリーの存在によって,マーチは“the soft(er) sex, female sex”(OED,“soft” 17.)の役割を付与されたのであると考えられる.以上のように読んでい くと,初期のヘンリーの“soft”がたとえ弱さや軟弱さ,女々しさを示唆していたとしても,その意味で の“soft”は上に引用したシーンでマーチを表す言葉へと移し変えられていると考えられる.硬い生 地の服を着て男性的役割を担っていたマーチは,男性が傍に現れると,比較的簡単にその服を 脱ぎ捨て,柔らかなイメージの女性の役割へと着替えを済ませたのであった.

2-2. マーチの失敗と挫折 しかし,ヘンリーが連隊にもどるため一時農場から去ると,マーチはたちまち手紙を送り,次のよ うに婚約を退けようとする.

You are an absolute stranger to me, and it seems to me you will always be one. So on what grounds am I going to marry you? When I think of Jill, she is ten times more real to me. I know her and I’m awfully fond of her, and I hate myself for a beast if I ever hurt her little finger. We have a life together. And even if it can’t last for ever, it is a life while it does last. And it might last as long as either of us lives. Who knows how long we’ve got to live? She is a delicate little thing, perhaps nobody but me knows how delicate. (Lawrence 57) このように,男性が不在になると,マーチは,ドレスを着て優雅な身のこなしをしていた自分を忘れ たかのように,女性二人で「一つの生活」をおくり,繊細なバンフォードを守っていくという役割を取 り戻そうとしていることがわかる.ヘンリーをはねつけようとするマーチの心理は,男性を排除して 女性だけのコミュニティを守ろうとする動きのようにもとれるが,富山太佳夫はマーチとバンフォード

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の関係について,それがレズビアン的関係であると同時に,「二人の間にジェンダーの差別が温 存されている」ことから,「この二人はそのレズビアンの関係を通して従来にはない新しい関係を模 索しているのではなくて,むしろ旧来の男女関係を再生産してしまっている」ところに二人の関係 の限界を見出している(富山 165).つまり,男性と女性の役割を行き来するマーチは,両性的な 新しいタイプの女性であるかのようにも見えるが,その転身はいつも男女関係の均衡を保つため の方向に働いていたのである. ゆえにバンフォード死亡の事件後,結局ヘンリーと結婚したマーチは,女二人の暮らしに無理 があったということをぼんやりと自覚し,敗北感にとらわれる.マーチは,「ジルが死んでよかったん だわ.幸せにできないことに気がついたから」(“[s]he was glad Jill was dead.For she had realized that she could never make her happy.” )と考え,無邪気に幸福な生活を夢見ていた 自分たちの“[t]he awful mistake of happiness”に気がつく(Lawrence 68).マーチとバンフォ ードの自活の試みははじめから,男性が外に出て働き,女性が家を守るという男女関係を模倣す ることで安定が保たれていたのであって,それはバンフォードを女性の役割に拘束してしまうことで もあった.そして黙想するマーチの傍ら,女性の自立ということに反感を感じている夫ヘンリーは, マーチを“just his woman”にしたいと望んでいる (Lawrence 70).マーチはそれに抵抗を続け ながらも,不透明な未来をぼんやりと見つめることしかできない.

2-3. “Unconscious Lesbian”: ブロウディの場合 以上のように,ロレンスの中篇「狐」は,女性だけで自活していく試みが挫折するという形で締め くくられていると読むことができる.そしてここでもう一度,『ミス・ブロウディの青春』にもどると,「狐」 のマーチと同じく,男性化したミス・ブロウディも,サンディにレズビアン的だと考えられていたことに 気が付く. ミス・ブロウディは,生徒たちの間で語り種になっている戦没した婚約者のヒューだけでなく,美 術教師のテディ・ロイド(Teddy Lloyd)や音楽教師のゴードン・ラウザー(Gordon Lowther)とも 恋愛関係にあった.ラウザーに関しては,ブロウディが彼の家に通っていることを彼女と敵対する 教師たちにも感づかれていたし,土曜日には生徒たちを伴って彼の家に行くこともあった.ミス・ブ ロウディは自分が男性を虜にし,彼の家もすべて自分の管理下にあることを生徒に見せ付けること で得意になっていたのだが,ラウザー本人に魅力を感じてはいなかったので,やがて彼との交際 は途絶える.一方,既婚者だからという理由で諦めた美術教師のロイドのほうは,自分の身代わり に,生徒を彼の愛人に仕立て上げることで間接的に自分の精神的支配下に置こうとする.このよう に,一見すると異性愛が前提となっているように思われるミス・ブロウディの恋愛だが,16 歳になっ たサンディだけは,心理学の本を読んでミス・ブロウディを自分なりに分析し,次のような考えに思 い至る.

She [Sandy] thinks she [Brodie] is Providence, thought Sandy, she thinks she is the God of Calvin, she sees the beginning and the end. And Sandy thought, too, the

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woman is an unconscious Lesbian. And many theories from the books of psychology categorized Miss Brodie, but failed to obliterate her image from the canvases of one-armed Teddy Lloyd.

(Spark 120)

Sandy は,ミス・ブロウディとラウザーの交際が途絶えつつあったとき,その理由を「先生の性的感 情が代理によって満たされたからだ」 (“her sexual feelings were satisfied by proxy”, Spark 113)と考えていた.たしかにミス・ブロウディは,実際に男性と関係するよりも,生徒たちの性生活 を把握し,それを管理することに喜びを見出すようになり,自身は男性との関係を絶つ方向へ向か っていた.自覚こそないかもしれないが,ミス・ブロウディは,ブロウディ・セットとラウザーやロイドを 共有し,ヒューに関しては思い出を共有することで,統一感に欠ける個性を持った生徒たちを“a body with Miss Brodie for the head”(Spark 30)へと形作っていたのである.誰とも結婚せず, 生徒たちに自分の人生の一番よい時期を捧げると宣言したブロウディは,代価として生徒たちの 人生を要求する.彼女が生徒たちを指して言った“heroines in the making”(Spark 30)とは,ブ ロウディという巨大なヒーローの添え物となる従順なヒロインであり,男性中心的な秩序を再構築す るものであるということにサンディは気づきはじめるのだ. ラウザーはほかの先生と結婚してしまったので,生徒たちはこんどはロイド家に通わされ,絵の モデルとしておとなしく彼の前に座りつづけるという日々が続く.キャンバスには女生徒たちの個性 を無視したロイドの好みの女性像が描かれていく.彼に描かれた生徒たちは皆ブロウディにそっく りになっていくのだ.サンディは,彼がブロウディ・セット全員をひとつのキャンバスに描いたら, “one big Miss Brodie”(Spark 102)になると考え,それを消すことができないかと考える.学年が 低いうちは,運命を操る神のように振舞う先生と皆がひとつになるというイメージを,サンディも必ず しも批判的に考えておらず,女性だけの力強い共同体に自分が加わることに魅力を感じていたと きがあった.しかし,サンディが考えていたブロウディとブロウディ・セットの融合というヴィジョンが, ロイドの絵に実現しかけてみると,それは女性同士が調和してひとつになるというよりは,ブロウデ ィという絶対的権力に従属する生徒たちの吸収,独裁者の地位の確立ということを意味しているよ うに思われたのであろう. この時点でサンディはブロウディにかなり反感を覚えるようになっていたが,セットの一員になっ たばかりのジョイス・エミリー・ハモンド(Joyce Emily Hammond)が 1937 年,スペインへ向かう途 中に命を落とした事件をきっかけに,ミス・ブロウディを裏切ることを決意する.ジョイス・エミリーは, ブロウディにフランコのために戦えと吹き込まれ,単身スペインへ向かったのだが,先生に反省や 後悔の色はなく,むしろサンディに向かって,ジョイス・エミリーが戦う前に死んだことが悔やまれる と話したのである(Spark 124).ブロウディのファシズム礼賛は,想定こそしていなかったにせよ, 一人の生徒の人生の終わりまで定めてしまうことになった.しかも彼女は,卒業年次を迎えたブロ ウディ・セットが徐々に学校から去っていくので,また初等部に “new set”をつくっているという (Spark 124).ブロウディのやり方に過剰と限界を見出したサンディは,これ以上同じことが繰り返 されてはならないと感じ,ブロウディを裏切って辞職に追い込む.ミス・ブロウディのファシスト党で

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あったブロウディ・セットも,女性共同体の確立を達成できずに離散する.

3.おわりに:“Miss Brodie in her prime” 以上のようにスパークの『ミス・ブロウディの青春』,ロレンスの「狐」は,どちらも 20 世紀初頭に増 加した独身女性が,新しい生き方を模索した物語として読むことができ,また,作中の女性には男 性化とレズビアニズムという傾向がある点においても共通点が見いだせる.本論考においては,こ れまで彼女たちの自立の試みが挫折していくさまとその理由について述べてきたが,彼女たちの 挑戦はまったくの無駄に終わったわけではない.各方面で進出を目指した独身女性の増加は, 女性がさまざまな思想を取り入れ,自分たちなりの新しい生き方を見出す重要な契機となってい た. 戦後,改宗して修道院に入り,シスター・ヘレナとなったサンディは,心理学の勉強を続けてお り,「日常的なるものの変容 」(‘The Transfiguration of the Commonplace’)という名の心理学 書を書き上げて一躍有名になる.読者の訪問を受けたサンディは,10 代のころに受けた影響につ いて次のように答える.

And there was that day when the enquiring young man came to see Sandy because of her strange book of psychology, “The Transfiguration of the Commonplace,” which had brought so many visitors that Sandy clutched the bars of her grille more desperately than ever. “What were the main influences of your school days, Sister Helena? Were they literary or political or personal? Was it Calvinism?” Sandy said: “There was a Miss Jean Brodie in her prime.”

(Spark 127-28)

1930 年代に多くいた spinster の一人にすぎなかったミス・ブロウディは,自分の人生の最良の時 を捧げて何かを残したいと考え,ファシズムへの共鳴を示し,男性的価値観を身につけ,生徒た ちを導こうとした.だが,ミス・ブロウディの新しい女性共同体の試みは失敗に終わり,かつてのブ ロウディ・セットはばらばらの人生を歩み,あまり係わり合いなく生きていくことになる.それでもサン ディだけは,女子修道院という,女性だけの世界で生きていくことを選びつつ,本の執筆と訪問者 の受け入れで外部とのつながりを保ち続ける.そしてそのサンディに一番影響を与えたのは,ほか ならぬ平凡な spinster の一人であったミス・ブロウディだったのである.上に引用した場面はおそ らく 1961 年と思われ 10,家父長制やジェンダーといった問題について,私的にも公的にも問題意 識が高まっていた時代,第2波フェミニズムが現れ始める時期と重なる.ロレンスの「狐」に読み取 れるように,たしかに初期フェミニズムには不完全な部分も多く,女性の自立が失敗に終わってし まうことも多かったかもしれない.また「狐」に関しては,男性筆者であるロレンスが女性の自立とい うことについて書いているため,マーチの失敗には,男性から独立して生きようとする女性に対す る批判が含まれているとも考えられる.しかし,フェミニズムに関する問題意識が再び高まる 1960

13

年代に,スパークは 1930 年代の独身女性を思い返してブロウディをヒロインに選んだのである. 第 1 波フェミニズムはしばしば,女性参政権獲得など,社会制度的な問題に中心的関心が向けら れていたとされるが,スパークは,ブロウディのような spinster たちが奮闘した時代を振り返り,限 界や問題点だけでなく,女性が結婚し,子を産み,育てるという定められたライフサイクルからの解 放や,活動領域の拡張など,次の世代のフェミニズムにつながる萌芽をも見出したのではないだ ろうか 11.この論考が扱ってきた 2 作品において見てきたように,戦間期における独身女性たちの 試みた女性共同体の実践や自立・自活への挑戦は,失敗や挫折という形で結末を迎えているも のの,初期フェミニズムの作品として読み解くことで,次世代のフェミニズムへの貢献も読み取るこ とができる.

註 本論文は,テクスト研究学会第 13 回大会(2013 年 8 月 30 日 於:甲南女子大学)にて 「“spinster”たちの青春―戦間期イギリスにおける女性の自立と挫折」と題して行った口頭発表の 原稿に加筆・修正を施したものである.

1

T. M. Devine によれば,19 世紀半ばから 20 世紀前半まで,スコットランドでは女性人口が男性

人口よりも多い状況が続いており,特に Highland 地方などでは 50-54 歳の女性のうち 30 パー セントが未婚であったという.Lowland 西部地方などの都市部では男女人口比・婚姻率ともに比 較的均衡が保たれていたようであるが,中産階級の女性に特に独身者が多かったようである. (523-24) 2

David Lodge はブロウディのファシズムへの共感は「筋の通った政治的態度ではなく,彼女のう

ぬぼれとロマンチックな感情の延長に過ぎない」(247)としているほか,Bryan Cheyette は Sandy の指摘を支持する形で“side interest” であるとし(370),Isobel Murray and Bob Tait はミス・ブロウディはファシストとしては「衝動的で,どちらかといえば理解力がない」(110)としてい る. 3

1910 年の発足当初から第一次世界大戦以前までは,ガールガイドの主な活動内容はよき妻・よ

き母となるための家庭内労働の訓練だったが,第一次世界大戦後の社会状況の変化および,チ ーフガイドの交代などにより,キャンプなどの屋外活動もはじまり,1930 年代までには会員数が発 足時の 8 倍以上にまで膨れ上がった.(矢口徹也・坂井博美「都市部における女子青少年団体の 研究―ガールガイド・ガールスカウトを中心に―」104-05 頁) 4

Auerbach,Nina. Communities of Women: An Idea in Fiction. Cambridge: Harverd

University Press,1978. (137) 5

Hilary Simpson は , 第 一 次 世 界 大 戦 終 戦 の 時 期 に 書 か れ た ‘Tickets , Please’‘The

Fox’‘Monky Nuts’の 3 短編を,ロレンスが戦後の性役割の変化を描いた作品として挙げている. ‘Monky Nuts’の Miss Stokes も land girl である.(63-80)

14

“When she was out and about, in her puttees and breeches, her belted coat and her

6

loose cap, she looked almost like some graceful , loose-balanced young man” (Lawrence 8) Edmund Bergler はこの二人の関係を夫婦関係を演じたレズビアンと断定している(“March

7

acts the ‘man’ and Banford, her companion,the ‘wife’”48). “soft,modulated voice”(14) “soft young voice musing” “soft run of his voice” (15)

8

“Meanwhile he was talking softly” (16) “in his soft,near voice” (17) “said the youth softly” (17) 9

“of a sound, the voice, etc. : Low, quiet, subdued; not loud, harsh, or rough. Also,

melodious, pleasing to the ear, sweet.”(OED, “soft” 3.) 10

1931 年の 28 年後,つまり 1959 年に看護師になった Eunice は医者である夫と,次の年(1960

年)にエディンバラへ行く計画を立てており(Spark 26-27),Eunice がサンディを訪問する場面で は,「去年エディンバラ祭に行った」とある(Spark 127),この作品の出版年も 1961 年である. 11

『ジーン・ブロウディの青春』(1961 年)以後,スパークの作品は『貧しい娘たち(The Girls of

Slender Means, 1963)』『クルー尼僧院長(The Abbess of Crewe, 1974)』など,フェミニズム的 読解と親和性の高い作品が多く見受けられる.

参考文献 Auerbach, Nina. Communities of Women: An Idea in Fiction. Cambridge: Harverd University Press, 1978. Bergler, Edmund. “D. H. Lawrence’s “The Fox” and the Psychoanalytic Theory on Lesbianism” A. D. H. Lawrence’s Miscellany. Ed. Harry T. Moore. London: Heinemann, 1961. 47-53. Burleigh, David. “Slightly Foxed: Frank Tuohy and D. H. Lawrence” 『フェリス女学院大 学紀要 第 47 号』2012 年,53-68 頁. Cheyette, Bryan. “Muriel Spark’s The Prime of Miss Jean Brodie.” A Companion to the

British and Irish novel, 1945-2000. Ed. Brian W. Shaffer. Malden, Mass. : Blackwell , 2005. 368-375. Devine, T. M. Scottish Nation, 1700-2000. London: Allen Lane, 1999. Lawrence, D. H. “The Fox.” The Fox; The Captain’s Doll; The Ladybird. London: Penguin, 2006. (『狐・大尉の人形・てんとう虫』丹羽良治訳,彩流社,2000 年.) Leavis, F. R. D. H. Lawrence: Novelist. London: Chatto & Windus, 1967. Lodge David. “The Uses and Abuses of Omniscience: Method and Meaning in Muriel Spark’s The Prime of Miss Jean Brodie.” Critical Quarterly 12.3 (1970): 235-57. McBrien, William. “Muriel Spark: the novelist as dandy”. Twentieth-Century Women

15

Novelists. Ed. Thomas F. Staley. London: Macmillan, 1982. Murray, Isobel, and Bob Tait. Ten Modern Scottish Novelists. Aberdeen University Press, 1984. Richmond, Velma Bourgeois. Muriel Spark. New York : F. Ungar Pub. Co, 1984. Simpson, Hilary. D.H. Lawrence and Feminism. Northern Illinois University Press, 1982. Spark, Muriel. The Prime of Miss Jean Brodie. London: Penguin, 2012. (『ミス・ブロウディ の青春』岡照雄訳,筑摩書房,1973 年.) Suh, Judy. “The Familiar Attractions of Fascism in Muriel Spark’s The Prime of Miss

Jean Brodie.” Journal of Modern Literature. 30. 2. (winter, 2007): 86-102. Walker, Dorothea. Muriel Spark. Boston : Twayne Publishers ,1988. Whiteley, Patrick J. “The social framework of knowledge: Muriel Spark’s The Prime of

Miss Jean Brodie.” Mosaic: a Jouenal for the Interdisciplinary Study of Literature Vol. 29. 4. 1996. 79-100. 朝日千尺『D. H. ロレンスのフェミニズムを読む』英宝社,2000 年. 伊田久美子「『男は戦争 女は母性』―イタリア・ファシズムの場合」『母性ファシズム:母なる自然の 誘惑』加納実紀代編,学陽書房 , 1995 年, 54-61 頁. 沢田知香子「『ジーン・ブロウディの青春』が終わった理由―芸術家/芸術作品としてのジーン・ブロ ウディ」『山梨大学教育人間科学部紀要 第 11 号』2009 年,290-297 頁. 武田美保子『〈新しい女〉の系譜:ジェンダーの言説と表象』彩流社,2003 年, 富山太佳夫「すべての愛を破壊しに」『D. H. ロレンス「狐」とテクスト』富山太佳夫,立石弘道編, 国書刊行会,1994 年. ファルガスン,ウィリアム『近代スコットランドの成立:18-20 世紀スコットランド政治社会史』飯島啓 二訳,未来社,1987 年. 矢口徹也・坂井博美「都市部における女子青少年団体の研究―ガールガイド・ガールスカウトを中 心に―」『早稲田教育評論』17(1),早稲田大学,2003 年.101-31 頁.

16

I Love Lucy における言語的ギャグの機能について ―“The Girls Want to Go to a Nightclub”に即して― A Functional Analysis of Verbal Gags in I Love Lucy: Focusing on “The Girls Want to Go to a Nightclub” 高木 ゆかり Yukari TAKAGI Abstract This paper discusses the functions of verbal gags in “The Girls Want to Go to a Nightclub,” the first episode of I Love Lucy (CBS 1951-1957). The references to “Little Boy Blue” and “Peter Cottontail,” characters in children’s literature, are derived from Lucy’s situation where she is struggling in vain to find her date. These references help amplify the episode’s comicality and also have a direct impact on the plot when they are used repeatedly to reiterate the connection Lucy has with “animals.” Moreover, these gags go beyond the episode and provide the background foundation of Lucy’s childish character. By looking at the development of the comparison with storybook characters and animals in the episode, this paper points out that gags, which tend to be considered as something just to suit individual comic occasions, are actually incorporated, through repeated and related usage of them, into the overall structure of a particular episode and the whole series of the show as well.

17

1.はじめに アメリカのテレビドラマ I Love Lucy (CBS 1951-1957) は,放送開始から 60 年以上経過した 現在でも,シチュエーション・コメディの代表作として評価され続けている古典的作品である.番組 は,ニューヨークに住むバンドリーダーの Ricky Ricardo と,妻で専業主婦の Lucy のアパートの 一室を舞台に,そそっかしいが愛すべきキャラクターであるルーシーが巻き起こす騒動を中心とし て,二人の日常生活を喜劇的に描いている 1.シチュエーション・コメディは,毎回同じ登場人物で 物語が展開していくことや,夫婦,家族,職場などの人々の生活を面白おかしく描くことを特徴とし ている 2.その起源はラジオ,さらに辿ればヴォードヴィル 3 にまで遡ることができる.技術的な側面 から言えば,複数(通常は三台)のカメラで同時に撮影した映像を繋ぎ合わせることや,編集時に 観客の笑い声を入れるラフ・トラック(laugh track)という手法 4 もシチュエーション・コメディの主要 な特徴の一つである.また,特に当時のこのジャンルは,それを視聴するアメリカ最大の消費者層 であった中産階級との繋がりを重要視し,時代相を映し出す鏡としての役割も果たしていた.週 1 回の放送で,時には何年間も続くという放映形態のため,虚構とはいえ視聴者の日常生活とも大 いに関わるジャンルであった 5.『アイ・ラブ・ルーシー』も当時の風俗や流行などに敏感に反応し, 1950 年代のアメリカ社会におけるベビーブームや,自動車普及に伴う郊外化といった事象 6 を積 極的に作品内に取り入れている.主人公の二人は 7 年間という時間の流れの中で,子供を授かり, 出世し,郊外にマイホームを購入するまでに成長していく. 本論で分析の対象とする“The Girls Want to Go to a Nightclub”(1951 年 10 月 15 日放送) は,『アイ・ラブ・ルーシー』全 179 話中,初放送のエピソードである.当初は 2 話目として撮影され たにもかかわらず,このエピソードは,番組の特徴をアメリカの視聴者に端的に紹介するのに適し ているという理由で,1 話目へと変更されている 7.物語は,リカード夫妻が住むアパートの管理人 であり,二人の親友でもある Fred, Ethel Mertz 夫妻の結婚記念日の過ごし方を巡り,夫達と妻 達が口喧嘩になる模様が中心に描かれている.そして,ルーシーとエセルが田舎者に変装し,夫 達のブラインドデートを台無しにしようと試みるシーンでクライマックスを迎える. 『アイ・ラブ・ルーシー』全体にも言えることであるが,このエピソード内には大小数えきれないギ ャグが使用されている.ギャグには大きく分けて,行為や見た目で笑わせる視覚的なもの(以下 「視覚的ギャグ」とする)と,洒落やジョークを含む言葉で笑わせる言語的なもの(以下「言語的ギャ グ」)がある.そのいずれであるにせよ,ギャグは「主題からそれがちで破壊的な意図に向かう」8 も のであり,ストーリーの流れに垂直的に割り込んで,その場その場で笑いを取るために用いられる ものとされている(シチュエーション・コメディにおいては,先述した観客の笑い声(ラフ・トラック)を 聞くことにより,それがギャグであると認識することができる).一般的にギャグはこのような特徴を持 っているが,しかし,ギャグをいざ厳密に定義しようとすると非常に難しい.Crafton は「ギャグとス ラップスティックは同義語ではない」9 と主張しているし,また定義する者によっては,「ギャグ」,「ジ ョーク」,「ユーモア」などと細かく分ける場合もある

10.Trahair

は「どの理論家達も自分の判断基

準で定義するのが好きな表現の一つ」11 と述べているほどである.以上のように,ギャグの定義は 論者によって様々に異なるが,本論ではギャグの様態が多様であることに鑑みて,広い意味で「ギ

18

ャグ」という言葉を用いたいので,「映画や漫画などで作り手側が用意した笑わせどころ」12 という 定義を拝借し,議論を進めることにする. このエピソードでルーシー達女性陣が行う過度な変装,それを見た男性陣の反応の面白さなど の目で見てわかるようなギャグは,まさに『アイ・ラブ・ルーシー』の典型的なギャグである.こうした 視覚的ギャグは,ルーシー役を演じる Lucille Ball (1911-1989) の代名詞でもあるスラップステ ィック的な芸風にも直結するため,これまで重点的に注目されてきた要素である.筆者自身もルー シーが冷凍庫やオーブンといった様々な物に振り回されるギャグや,ルーシーの変装にまつわる ギャグについて考察した

13.しかしこうした視覚的ギャグに比べるとインパクトが弱く感じられるため

か,言語的ギャグについては,これまでの研究ではあまり触れられてこなかった.しかし本作品で は言語的ギャグも視覚的ギャグに劣らず重要な要素となっている.そこで本論では,“The Girls Want to Go to a Nightclub”で使用されている言語的ギャグに焦点を当て,その機能について 論じることにより,一つ一つのギャグがいかに作品の構造に深く関わっているのかを考察する.

2.Little Boy Blue と Peter Cottontail による笑い 物語は次のように始まる.フレッド,エセル・マーツ夫妻の 18 回目の結婚記念日が近づいてい たある日,ルーシーとエセルはキッチンで食器を洗いながら記念日の予定について話し合ってい る.二人はどうしてもロマンチックなナイトクラブであるコパカバーナで祝いたいと思っているが,夫 達がそういった高級で堅苦しい場所に行きたがらないことを知っている.そこで,男性陣に優しく 接し,色仕掛けを駆使して,ナイトクラブに行くことを了承させようと計画する. 一方,場所を移して,隣のリビングでは,リッキー,フレッドの男性陣も結婚記念日についての話 をしていた.フレッドは,ステーキハウスで食事をした後に,ボクシング観戦に行きたいのだとリッキ ーに相談を持ちかける.リッキーは女性陣をボクシング観戦に連れて行くのは相当困難であるとし ながらも,甘い言葉で二人を口説けば成功するはずだと,ルーシーと全く同じアドバイスをフレッド にする. 女性陣が食器を洗い終えてキッチンからリビングへと戻ってくると,四人の奇妙な気遣い合戦が 始まる.しかし,そのような不自然な行動が長く続くはずもなく,お互いの魂胆が露呈すると,口喧 嘩へと発展してしまう.怒ったルーシーが,自分達でデート相手を探してでもナイトクラブへ行くと 言い放つ.デート相手など見つけることができるものかと男性陣が鼻で笑うと,さらにルーシーは“I know just who our dates will be, and they’re both tall dark and handsome and

young.”(「もうデート相手だって決まっているんだから.二人とも背が高くて,黒髪のハンサムな若 者よ.」)14 と付け加える.実はこれは単なるルーシーの強がりで,実際のところデート相手の当てな ど全くない.それにもかかわらず,横にいたエセルがその名前をしつこく聞いてくるので,ルーシー は苦し紛れにエセルの耳元で適当な名前を囁く.ルーシーのでたらめな話を信じ,気を悪くした 男性陣がリビングを出て行くと,エセルは今囁かれた名前は誰のことかとルーシーに尋ねる.そし て実は全くのでたらめであったことを知ることになり,二人は途方にくれてしまう. 男性陣がリビングを去った後,女性達の間で次のような会話が交わされる.

19

Ethel: Lucy, what were those names you whispered to me? Lucy: What did they sound like? Ethel: It sounded like Little Boy Blue and Peter Cottontail. Lucy: That’s who it was. Ethel: Huh? Lucy: Well, I was just trying to put up a big front while boys were here. エセル:「ルーシー,さっきあなたが私に囁いた名前は何?」 ルーシー:「どんな風に聞こえた?」 エセル:「リトル・ボーイ・ブルーとピーター・コットンテイルって聞こえたけれど.」 ルーシー:「その通りよ.」 エセル:「えっ?」 ルーシー:「男性陣がここにいる間は見栄を張りたかっただけなのよ.」

ルーシーが苦し紛れにエセルに囁いた名前であるリトル・ボーイ・ブル ーとピーター・コットンテイルには,実はそれぞれ出典がある.リトル・ボー イ・ブルーというのは,Mother Goose の中に登場する少年のことである (図 1 参照)15.『マザーグース』については,ここで改めて説明するまでも ないが,端的に言えば,「イギリスやアメリカなど英語を母語とする国々で, 昔から口誦によって伝承されてきた古い童謡の数々」16 を指す.それらは, 「英米人の一生とつかず離れずの関係」にあり,「主人公の名や詩句が日 常表現の中で使われる」ほど誰もが知っている存在である

図1

17 .実際,『ア

イ・ラブ・ルーシー』の数あるエピソードの中でも,『マザーグース』からの 引用が度々見られる

18.また,ピーター・コットンテイルは,アメリカの児童

文学作家 Thornton Waldo Burgess の The Adventures of Peter

Cottontail (1914) という作品に登場する主人公の兎の名前である(図 2 参照)19.動物童話の大家と謳われるバージェスは,1910 年のデビュ ー以来,百冊近い本を出版した.読者層である子供達は「簡潔な文 章」と「奇抜なユーモア」20 を楽しんだ.そしてそれらの本の多くが 様々な言語に翻訳され,所謂「ベッドタイムストーリー」として今で

図2

も愛読されている 21. それでは,なぜここでリトル・ボーイ・ブルーとピーター・コットンテイルというものが使用されるの か.筆者はそこに,ルーシーとエセルが直面せざるを得ない「壊滅的な恋愛事情」との連関を見て 取る.既に述べた通り,ルーシーの親友であるエセルは,近々18 回目の結婚記念日を迎える.エ セルより歳が若いルーシー自身も,リッキーと結婚してもう 11 年になる 22.結婚 18 年目と 11 年目

20

の専業主婦に,まともなデート相手を見つけるのが難しいことは想像に難くない.殊にこの番組が 放送されていた 1950 年代における女性の家庭回帰の風潮

23

を考えればなおさらのことだろう.

結婚した女性は家に入り,夫や子供のために尽くすことが幸せだと考えられていた時代に生き,そ れを実践しているルーシーとエセルが,急に思い立って夫以外の男性と遊びに行こうとしても,そ れは限りなく不可能に近い.リトル・ボーイ・ブルーとピーター・コットンテイルのギャグは,ルーシー とエセルのそういった状況から生み出され,二人の異性に関する望みの希薄さを強調しているの ではないだろうか.ルーシーの言う「背が高くて,黒髪のハンサムな若者」など,到底手に入るはず もなく,二人の相手をしてくれるのは,リトル・ボーイ・ブルー=「子供」やピーター・コットンテイル= 「動物」くらいしかいない.そのような,「素敵な大人の男性」と「子供や動物」との大きな落差がこの 場面の笑いを生み出しているのである. しかしながら,ここでの喜劇性はこういった落差だけから生じるのではない.なぜならば,リトル・ ボーイ・ブルーとピーター・コットンテイルは単に「大人」と対比されるという意味での「子供」や「動 物」ではないからである.両者の性質を見てみると,リトル・ボーイ・ブルーは,牛や羊の世話をす る仕事を言いつけられているにもかかわらず,干し草の下で居眠りをしてしまう.それだけではなく, 彼を起こしてしまうと,不機嫌になって泣いてしまう恐れすらあるという何とも役立たずで情けない 子供だ 24.ピーター・コットンテイルも,「自分の名前がきこえがわるいからといって,勝手にコトンテ イルなどという,カッコイイ名前につけかえて,気取ってみる」25 ような見栄っ張りの性格の持ち主で ある.ルーシーとエセルが求める理想的な魅力を備えた男性像からあまりにも遠くかけ離れている これら二つの単語は,デート相手として,そういった欠点を持った人物(動物)しか見つからないと いう「中年女性の悲哀」を感じさせ,憐みを伴う笑いを生み出しているのである. ルーシーのその場しのぎの呟きは,「その場」だけでは終わらない.それは,デート相手を真剣 に探し始めた時の二人の台詞からもわかる.夫達に強がりを言った手前,何としても自分達をナイ トクラブへ連れて行ってくれる男性を見つけなければならなくなった二人は,これまで出会った男 性達を頭の中で必死に思い浮かべるが,デート相手となると全く思いつかない.ルーシーはまだ まだ集中力が足りていないからだと諦めないが,考えれば考えるほど弱気になっていく様もまた会 話から読み取ることができる.

Lucy: Oh, we’re not concentrating.

We must know two men who are single

and attractive. Two men who are single? Two men?

A boy and a

dog? Ethel: No, maybe we should settle for Little Boy Blue and Peter Cottontail. ルーシー:「集中していないから駄目なのよ.独身で魅力的な男性二人くらい知っている はずよ.[だんだんと自信をなくした様子で]独身の男性二人……? 男性二 人……? 男の子と犬……?」 エセル:「誰もいないわね.リトル・ボーイ・ブルーとピーター・コットンテイルで手を打つし

21

かないかもしれないわ.」

ルーシーはデート相手の条件を「独身で魅力的な男性二人」→「独身の男性二人」→「男性二人」 →「男の子と犬」といった具合にだんだんと下げていき,最終的には「子供」と「動物」に舞い戻って いる.そしてこれは続くエセルの台詞に出てくるリトル・ボーイ・ブルーとピーター・コットンテイルへ と繋がっていくのである.このことからもわかるように,二人は時間の経過とともに,自身の女性とし ての魅力の欠如を自覚していく.そして,ここでのエセルの返答で,リトル・ボーイ・ブルーとピータ ー・コットンテイルが再び用いられることにより,相手にしてもらえるのは子供と動物くらいしかいな いという,彼女達の危機的な状況がますます現実味を帯び,喜劇性が高まっている.リトル・ボー イ・ブルーとピーター・コットンテイルは人口に膾炙したキャラクターであったがゆえに,当時の視 聴者の大部分はこのギャグの意図を容易に理解し,即座に反応することができたと思われる.

3.「動物」ギャグの連続性 ところで,「動物」というキーワードを手掛かりとして,もう一度前節で引用したギャグを見直すと, 最初に指摘したピーター・コットンテイルに加えて,デート相手の条件をどんどん下げていった時 のルーシーの台詞の中で,“a dog”が使用されているのがわかる.さらに,後述するシーンで交わ されるルーシーとエセルの様々な会話の中で「動物」に言及したギャグ(以下「「動物」ギャグ」)が 使用されており,これらは連続したギャグとなって,単体のギャグの笑いを反復性の笑いへと昇華 させている. どれだけ考えてもデート相手が思い浮かばず,悩んでいた二人だったが,ルーシーがとってお きの策を思いつく.それは,ルーシーが昔付き合っていたボーイフレンドに連絡を取るというもので あった.ルーシーは,11 年前のアドレス帳を引っぱり出してきて,片っ端から電話をかけ始める.こ こでいったん場面は変わり,マーツ家のリビングが映し出される.先ほどのルーシーの言動に気を 悪くし,リカード家のリビングを出て行ったリッキーとフレッドだったが,ボクシング観戦が楽しみで わくわくしているフレッドとは対照的に,リッキーは不安そうな様子で椅子に座っている.というのも, ルーシーの強がりを真に受けてしまい,他の男がルーシーを連れてナイトクラブに行くことを危惧 しているからである.そこでリッキーは,自分達もデート相手を見つけてナイトクラブへ行き,ルーシ ー達とそのデート相手が度を越して親しくしないよう監視する計画を思いつく.彼は,町中の女性 を知っているという同僚の Ginny に電話をかけ,デート相手を斡旋してもらうことにする. 一方,リカード家のリビングでは,ルーシーが気落ちした様子で電話をかけ続けている.頼みの 綱であった昔のボーイフレンド達は,今では皆既婚者だったため,まだデート相手が決まらないの である.この人なら大丈夫だろうと高を括っていた最後の一人にも子供がいることがわかり,腹を立 てて電話を切るルーシーを見て,エセルは以下のように呟く.

Ethel: Well, we can always call the zoo and order a couple dancing bears.

22

エセル:「まあ,いつでも動物園に電話して踊る熊を二頭頼めるけれど.」

上記の台詞の直後に,ルーシーは急に何かを思い立ち,また誰かに電話をかける.気になって 仕方のないエセルは,先ほどリトル・ボーイ・ブルーとピーター・コットンテイルを聞き出した時のよう に,ダイヤルを回すルーシーにしつこく尋ねる.あまりにもうるさくつきまとうエセルの態度に辟易し たルーシーは,ぴしゃりとはねつける.

Lucy: Oh!

Why didn’t I think of this before.

Ethel: Who are you calling?

Who, who, who?

Lucy: Quiet, you sound like an owl. ルーシー:「あぁ!なんで今まで思いつかなかったのかしら.」 エセル:「誰に電話をかけようとしているの?誰(Who),誰(who),誰(who)?」 ルーシー:「静かにして,梟じゃあるまいし.」

ルーシーがエセルに対して「梟」だと言うのは,直前のエセルの「誰(who)」が,梟の鳴き声に似 ているからである.「動物園(zoo)」,「踊る熊(dancing bears)」,そして「梟(owl)」の「動物」ギャグ は,これ単体でも十分喜劇的効果を生む役割を果たしているが,それが連続して用いられること により,さらに笑いを増強している. Neale と Krutnik は Popular Film and Television Comedy の中で,視覚的ギャグの連続 性について articulated gag(連結ギャグ)と running gag(連続ギャグ)の二つに分けて詳しく考 察している.articulated gag については,Buster Keaton の映画を例に取って次のように説明さ れている.

Cops (1922) の中では,パレードに参加しているアナーキストが,ビルの屋上から爆弾 を投げる.爆弾は,キートンによって演じられているキャラクターの横に落ちる.彼はその 時荷馬車で走り過ぎようとしている.キートンはその爆弾を拾い上げ,燃えている導火線 で煙草に火をつけてから,その爆弾を行進している警察官達の集団の中に投げ入れる 26.

警察官達の集団の中に爆弾を投げ入れるというキートンの最後の行動に喜劇性を持たせるには, それ以前に二つの要素を含んだ段階を持たなければならないとニールとクルトニックは指摘して いる.つまり,「1.基本的な構成要素の準備(キートンと彼の荷馬車がパレードに現れる時にアナ ーキストが爆弾を投げる準備をする),2.特定の方向におけるシチュエーションの発展(キートン の横に爆弾が落ちる)」があってこそ,キートンの最後の行動は「3.どんでん返しとパンチライン」 になり得るのだ 27.こうした複数の動作で一つのギャグになるものを,articulated gag という.

23

それに対して,running gag は次の引用に見られるようなものである. [Laurel and Hardy の]Busy Bodies (1933) では,Stan Laurel がクローゼットのドア を開けると,Oliver (Ollie) Hardy の顔にあたる.オリーがドアをバタンと閉めると,その 衝撃で壁にかかっていた金属片が外れ,オリーの頭に落ちる.その間にスタンがまた戻 ってきてドアを開けるとオリーの顔面に直撃する 28.

この,オリーの頭部に繰り返し物がぶつけられるような状況が running gag であり,類似したギャ グ(一つ一つがそれ単体でギャグとして完結しているもの)が繰り返されることで,笑いが大きく深 化する特徴がある.running gag については,『アイ・ラブ・ルーシー』の他のエピソードでも多々 見受けられる.例えば,ルーシーがバーゲンセールで購入した返品不可のドレス代を稼ぐために, ベビーシッターの仕事をする“The Amateur Hour”(1952 年 1 月 14 日放送)というエピソードに おいては,入れ替り立ち替わりリビングに入ってくる双子に,幾度も同じ側の脛を蹴りあげられると いう視覚的ギャグがあるが,それはこの典型だろう.当該エピソードにおける「動物」ギャグの連なり も,上で引用した例ほどテンポ良く配置されてはいないが,物語のタイムライン上にゆるやかに置 かれている running gag の変形と言えるだろう. しかし,この連続する「動物」ギャグには,繰り返しによって笑いが増幅される以外にもう一つ隠 された仕掛けがある.そのからくりは,最後にルーシーが言う台詞にある.これまで取り上げてきた 「動物」ギャグと,“Quiet, you sound like an owl.”のギャグを比較すると,動物のイメージをあて がわれた者が誰であるのかという点で,大きな違いがあることに気づく.先ほどから何度も述べてき た通り,当初,「動物」に関連する単語は,ルーシーとエセルのデート相手を指すものであった.そ れが最後のルーシーの台詞では,エセル自身が梟のような声をあげている.動物くらいしかデート 相手が見つからないどころか,エセル自身がとうとう「動物」に成り下がってしまったのである.そう いった意味で,ピーター・コットンテイルを始めとする一連の「動物」ギャグは,最後の「オチ」を形 成するための一つのピースであるとも考えられる.一つ一つのギャグが独立しているので,あくまで も running gag であることには変わりないのだが,実はここではギャグ同士が結びつくことにより, running gag の反復性の笑いとは異なったおかしみが生じている.つまりどんなに危機的な状況 に置かれていようと,ルーシー達がかろうじて保持していた人間性が,エセルのがつがつとした “Who, who, who?”の台詞によって完全に失われ,デート相手を必死で探す彼女達が本能的に 獲物を狙うような動物へと落ちぶれていく過程が段階的に描かれることによって,ただ類似したギ ャグを重ねる笑いとは異なったレベルの笑いが形成されている.このエピソードの「動物」ギャグは このように articulated gag の要素も兼ね備えることによって,より深い笑いを観客に提供している のである.

4.物語構成における running gag の機能 これまでの節では,言語的ギャグの「笑い」を中心に据えて詳しく述べてきたが,本節では,物

24

語展開の見地からこのギャグを分析してみる.先に,連続する「動物」ギャグが,物語のタイムライ ン上に時間をあけながらゆるやかに配置されていると指摘したように,それらは一つのシーンを跨 ぐような形で配置されている.







エピソード展開との関連でギャグを考えると次のようになる.

①のシーン:デート相手を探さなければならなくなった女性陣が,ルーシーのアドレス帳を頼 りに,電話をかけ始める.ルーシーが“a dog”を,エセルが「リトル・ボーイ・ブルー」と「ピータ ー・コットンテイル」を二度使用する. ②のシーン:リッキーとフレッドのシーンに切り替わる.ルーシーの計画を心配したリッキーが, 同僚のジニーにデート相手を世話してもらうよう電話をかける.「動物」ギャグは使われない. ③のシーン:昔のボーイフレンドをデートに誘うという案が失敗に終わったルーシーが,次の 案を思いつくまでが描かれる.動物園に電話して,踊る熊を二頭頼むというエセルのギャグと, 彼女を梟みたいだと言うルーシーのギャグが使われる.

ここで疑問なのは,なぜシーンを跨いで running gag が使用されているのかということである. その理由を考える上で,ルーシーとエセルが置かれた状況,あるいは二人の行為が大きなヒントと なる.①のシーンでは,「デート相手を探そうとする」→「なかなか見つからない,あるいはいい相手 が思い浮かばない」→「昔のボーイフレンドに電話をかける」となっており,次に③のシーンでも「昔 のボーイフレンドに電話をかける」→「なかなか見つからない,あるいはことごとく当てが外れる」→ 「また新しい案を思いつき電話をかける」となっている.①と③との間には,リッキーとフレッドのシ ーンがはさまれて,はっきりとした時間経過があるにもかかわらず,「デート相手を探しているけれ ど見つからない」というルーシーとエセルの行為・状況は一切変化していない.ギャグの連続は, 二つの切り離されてはいるけれども,同一状況のシーンを明確に結び付けることによって,ルーシ ーとエセルの奮闘を感じさせつつも,一向に解決策が見出せないという事態の逼塞感を強調する 機能も果たしている. 先ほど「はじめに」の節において,ギャグを「主題からそれがちで破壊的な意図に向かう」ものと し,その場限りの笑いを取るものと見なしたが,しかし上で見てきたように,ギャグは連続,あるいは 連結することによってエピソードの構成と展開を支え,話のプロットに大きな影響を与えるという役 割を持つものとして,実は作品構造に深く組み込まれているのである.

25

5.Simon と Elmer さらに言えば,この連続・連結性から生じるギャグの機能は,単一のエピソード内だけに留まるも のではない.そのことを考えるために,本節ではルーシーのキャラクター像との関連から,物語の 後半でリッキーが発する台詞を読み解くことにより,エピソードの枠を越えたギャグの機能について 論じたい.その際,なぜキャラクター像に注目するかであるが,先に述べたようにシチュエーショ ン・コメディは映画のように 1 回の放送で番組そのものが完結するわけではなく,例えば 1 クール, あるいは長いもので 10 年続くという特色がある.そうした連続シリーズにおいて,登場人物は月日 の変遷とともに成長する可能性はあるかもしれないが,基本的なキャラクター像はエピソードの枠 を超えて一貫して存在する重要な要素の一つであるからだ. 物語の後半では,男性陣の計画を偶然知って憤慨したルーシー達自身が,夫達のブラインド デートに成りすまし,仕返しをする模様が描かれている.とびきりの美女二人がやってくると期待し ているリッキーとフレッドの前に現れたのは,お世辞にも美しいとは言い難い,ヒルビリー29 の親子 であった.ルーシーとエセルが扮するあまりにも醜い二人を目の当たりにしたリッキーが,何とか彼 女達を追い返そうと,以下のような台詞を言う.

Ricky: We be….

We be Simon and Elmer.

リッキー:「僕達は…….僕達はサイモンとエルマーです.」

二人のデート相手に絶対なりたくないリッキーが,自分達の名前を偽るために発せられた台詞で あるが,このサイモンとエルマーという二つの名前がどこから発想されたのか,今のところその由来 を裏づける資料は発見できていない.サイモンとエルマーはフルネームではないので,先述したリ トル・ボーイ・ブルーやピーター・コットンテイルほど明確に特定することができない. しかし,リトル・ボーイ・ブルーとピーター・コットンテイルが,ルーシーとエセルのデート相手にな るものとして使用されていたものだったのならば,類似した「デート」という状況において,リッキー が発したサイモンとエルマーという名前が,リトル・ボーイ・ブルーやピーター・コットンテイルと何ら かの関連性を持っていると考えることは可能であろう.そこで今一度リトル・ボーイ・ブルーとピータ ー・コットンテイルについて思い出してみたいのは,両者の出所である.第 2 節で述べた通り,リト ル・ボーイ・ブルーは『マザーグース』の,ピーター・ コットンテイルはバージェスの児童文学からの引用 であった.ここではこの児童文学というものが示唆 している幼児性に着目し,リトル・ボーイ・ブルーと ピーター・コットンテイルのギャグを「幼児的なもの」 を想起させるギャグ,「「幼児性」ギャグ」と名付けて みよう. さて,問題のサイモンとエルマーが,これら二つ

26

図3

図4

の名前と同様に児童文学に由来するとすれば,サイモンという名前 が,実はリトル・ボーイ・ブルーと同じ『マザーグース』の中に出てくる Simple Simon であり(図 3 参照)30,エルマーという名前が,日本で は 『 エ ル マ ー の ぼ う け ん 』 の 名 で 親 し ま れ て い る Ruth Stiles Gannett の My Father’s Dragon(1948)の主人公である Elmer Elevator であると仮定できる(図 4 参照)31.シンプル・サイモンにつ

図5

いては,ルシル・ボールがかつて出演したコマーシャルの中で,『マ ザーグース』に登場する Little Miss Muffet32 を基盤とするキャラクターを演じたことがあるという 事実

33

を考え合わせると,蓋然性はより高くなるだろう.しかし,エルマーに関しては,もう一つ有

力な候補が存在する.それは,アメリカの映画制作会社であるワーナー・ブラザーズが制作した,

Looney Tunes(1930-1969)34 というアニメシリーズに登場する Elmer Fudd というキャラクターで ある.彼は,シリーズの主要なキャラクターである Bugs Bunny という兎を狩ろうと目論んでいるハ ンターであるが,いつも怪我をして失敗に終わる(図 5 参照)35.しかし,リッキーが言うエルマーの 可能性が,エルマー・エレベーターであろうが,エルマー・ファッドであろうが,両者が「幼児性」を 想起させるキャラクターであることには相違ない.そうであれば,リッキーのこのギャグも,リトル・ボ ーイ・ブルーとピーター・コットンテイルの場合と同様に,「幼児性」ギャグと捉えることができる 36. リトル・ボーイ・ブルーとピーター・コットンテイルからサイモンとエルマーに至るこれらの「幼児 性」ギャグも,第 3 節で論じた「動物」ギャグと同じく,running gag と見なしてもいいだろう.「動物」 ギャグの場合よりも距離が離れすぎているかもしれないが,タイムライン上にゆるやかに配置されて いることには違いない.しかし,これらのギャグで笑われているのは,リトル・ボーイ・ブルーとピータ ー・コットンテイルの場合は女性陣であり,サイモンとエルマーの場合は男性陣である.「幼児性」 が当てはめられ,笑われる対象が異なっていることを考慮すると,articulated gag の要素も認め られる. それでは,これらの「幼児性」ギャグが果たす機能とは一体何であろうか.この「幼児性」ギャグも また,「動物」ギャグと同様に,連続・連結することによって喜劇的効果を生み出す以外のある種の 機能を果たしているのではないか. 主人公であるルーシーの性格が非常に子供っぽいということは,様々な文献で指摘されている ことである.その例をいくつか挙げてみると,HenryⅢはルーシーを「いつも何かをたくらみ,いつ も失敗し,いつも罰せられるが,いつも許してもらえる小さないたずらっ子」 37 と形容し,また, Horowitz は「ルーシーは子供っぽいがゆえに,たとえどれほどばかげていようと自分の欲する物 を追い求める.」38 と述べている.彼らは一貫してルーシーの中に「幼児性」を見出している. こうした幼児としてのルーシーのイメージは,7 年間という放送期間を通じて培われ,視聴者に 認識されていくものであるが,第 1 話のエピソードで使用されている上記の「幼児性」ギャグは,一 つのエピソードの枠を越えて,番組全体を通して作られていくルーシーの幼児的なキャラクター像 を形成する土台としての機能を果たしているのではないだろうか.もちろん,リトル・ボーイ・ブルー とピーター・コットンテイルが使用されている時点で,当時の視聴者もこれが子供向けの話であるこ

27

とは理解できていたはずだが,ルーシーの人となりがまだわかっていない 1 話目において,これら のギャグをルーシーの幼児的なキャラクターと結び付けることは不可能であっただろう.「幼児性」 というキーワードは,あくまでも後世の視点から作品を見返した者にしか分かり得ないものであり,1 話目においては言わば「伏線」のようなものだと見なせる.そういった意味で,本節で提示した,主 人公のキャラクター像を形成するというギャグの機能は,後世の視点から見た番組全体における 機能だと言うことができる.以上を表にまとめると次のようになる.

一つのエピソード内でのギャグの機能

番組全体におけるギャグの機能

「動物」というキーワードとしてのピータ

「幼児性」というキーワードとしてのリトル・ボーイ・ブ

ー・コットンテイル

ルーとピーター・コットンテイル

「動物」ギャグの連続・連結性

「幼児性」ギャグの連続・連結性(サイモンとエルマ ー)

シーンを跨いでの動物ギャグの使用=

当時の視聴者が,これから認識していくであろう,

ルーシーとエセルの状況が変化しない

「子供っぽい性格」のルーシー像を形作る土台として

逼塞感を象徴=エピソードレベル

の機能=キャラクターレベル,作品レベル

6.おわりに 以上のように,本論では,『アイ・ラブ・ルーシー』 の初放送のエピソードである,“The Girls Want to Go to a Nightclub”で使用されている言語的ギャグに焦点を当て,その機能について 論じてきた.ギャグというものは従来,ストーリーとはさほど密接に連関せず,一過性の笑いを取る ものだと見なされる傾向があったが,『アイ・ラブ・ルーシー』においては,第 2 節で論じたように,ギ ャグが生成される際に登場人物の置かれた状況と深く関わっている.また,第 3 節で述べたような 連続性,連結性によってギャグの喜劇性を増幅するだけではなく,第 4 節で言及したように,プロ ットの展開を支えるような役割を果たすようになる.さらにはエピソード内での機能を越え,第 5 節 で論じたように,主人公のキャラクターを形成する機能も兼ね備えていると推測できるのである.こ の推測を裏付けるためには,エピソード間のギャグの結びつき,つまり番組全体のギャグの連続性, 連結性を見出す必要が出てくるだろう.なぜならば,後の様々な研究で言及される「幼児性」を持 ったルーシーというキャラクター像を形作るためには,同じようなギャグが繰り返し用いられなけれ ばならないからである.それを具体的に検証することは今後の課題としたい.本論は一つのエピソ ードの言語的ギャグのみに焦点を当てて論じたが,視覚的ギャグも含めて,登場人物の置かれた 状況から生み出された多種多様な単体のギャグが,ギャグ同士の連続,連結という段階を経て, エピソード内外へと関わりを持つようになっていくという過程が『アイ・ラブ・ルーシー』全体に見出 されるとすれば,そのようなギャグのあり方が,やがては『アイ・ラブ・ルーシー』以降に発展していく シチュエーション・コメディというジャンルにおけるギャグの規範となっていく可能性も浮かび上がっ てくるだろう.そのことも視野に入れてさらに研究を進めていきたいと考えている.

28

(本論は,2013 年 8 月 30 日に甲南女子大学で開催された,テクスト研究学会第 13 回大会にお ける発表内容を基に加筆修正したものである.)

注 作 品 概 要 に つ い て は , Andrews, Bart. The “I Love Lucy” Book. New York: Doubleday, 1985.を参照. 2 シチュエーション・コメディについては,Mills, Brett. Television Sitcom. London: BFI Publishing, 2005.を参照. 3 1880 年代から 1910 年代にかけて人気を博したアメリカのショービジネス形態の一つ.舞台やダ ン ス , 漫 才 な ど を 行 う . Lewis, Robert M, ed. From Traveling Show to Vaudeville: Theatrical Spectacle in America, 1830-1910. Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 2003, p.315. 4 撮影時にスタジオで観覧していた観客の本物の笑い声を入れる場合もあれば,人工的に作り 出した笑いを挿入する場合もある. 5 Robards, Brooks. “Situation Comedy and the Structure of Television: A Structural Analysis.” PhD diss., University of Massachusetts, 1982, pp.65-66.参照. 6 1950 年代の社会現象については,Halberstam, David. The Fifties. New York: The Random House Publishing Group, 1993.を参照. 7 Tucker, David C. The Women Who Made Television Funny: Ten Stars of 1950s Sitcoms. Jefferson, NC: McFarland, 2007, p.45. 8 Trahair, Lisa. The Comedy of Philosophy. Albany: State University of New York Press, 2007, p.44. 9 Crafton, Donald, “Pie and Chase: Gag, Spectacle and Narrative in Slapstick Comedy” Classical Hollywood Comedy. London: Routledge, 1995, p.109. 10 Neale, Steve and Frank Krutnik. Popular Film and Television Comedy. London: Routledge, 1990.参照. 11 Trahair, p.44. 12 黒木夏美『バナナの皮はなぜすべるのか?』(水声社,2010 年)21 頁. 1

13

「I Love Lucy にみる変装ギャグ」日本映像学会第 36 回全国大会(2010 年 5 月 30 日,日本

大学)において口頭発表した. 14

本論で引用する台詞は,映像資料に記した DVD のクローズドキャプションである.必ずしも文

法的に正しくない表現もあるが,クローズドキャプションの原文に即している.和訳は筆者によるも のである.また,[ ]で括った部分は筆者による注釈である. 図1出処 http://www.gutenberg.org/files/18546/18546-h/18546-h.htm (2013 年 5 月 2 日). 16 藤野紀男『図説 マザーグース』(河出書房新社,2007 年),4 頁. 17 藤野紀男,同上,9 頁. 18 子供が関連してくるエピソードなどでは,“Rock-a-bye Baby”が多用される.例えばルーシー の妊娠が発覚する“Lucy Is Enceinte”(1952 年 12 月 8 日放送)でも,リッキーが“Rock-a-bye Baby”を歌いながら祝福する様が描かれている. 19 図 2 出処 http://www.barnesandnoble.com/w/adventures-of-peter-cottontail-thornton-w-burgess/ 1101314976?ean=9781300449546 (2013 年 5 月 2 日). 20 Silvey, Anita, ed. Children’s Books and Their Creators. Boston: Houghton Mifflin Company, 1995, p.104. 15

29

「原作者バージェスについて/白木 茂」 T・バージェス(田谷多枝子 訳)『いばらやしきのピ ーターうさぎ』(金の星社,1981 年),169‐172 頁参照.

21

22

リカード夫妻が結婚 11 年目であるということは,後のエピソードではっきりと言及されているが,

当該エピソードにおいては,後述するあらすじの中で,ルーシーが婚前に使っていた電話帳が, 「11 年もの」であるという台詞から判断がつく. 23 May, Elaine Tyler. Homeward Bound : American Families in the Cold War Era. New York: Basic Books, 2008.参照. 24 夏目康子・藤野紀男(編)『マザーグース イラストレーション事典』(柊風舎,2008 年)82‐88 頁 参照. 25 「この作品について/田谷多枝子」T・バージェス(田谷多枝子 訳)『いばらやしきのピーターう さぎ』(金の星社,1981 年),163 頁.ピーター・コットンテイルの本来の名前はピーター・ラビット (翻訳ではピーターうさぎ)であったが,自分の名前がつまらないという理由で一時的にコットンテ イルに変更した. 26

Neale and Krutnik, p.51.

27

ibid., pp. 51-52.

28

ibid., pp. 52-53.

29

米国南東部山岳地帯,特にアパラチア山脈の出身者に対する軽蔑的な呼称.

図 3 出処 http://plaza.rakuten.co.jp/westhedge/diary/201009130000/ (2013 年 7 月 29 日). 31 図 4 出処 http://www.bostonmamas.com/2009/06/ (2013 年 7 月 29 日). 32 蜘蛛に怯えて逃げ出してしまう少女. 33 Robards, p.55. 34 アカデミー短編アニメ賞なども受賞した当該シリーズは,短編・長編映画やテレビ放送などを入 れると,その放映期間は長期にわたるが,最もよく知られている短編映画の制作期間は,主に 1930 年から 1969 年までである. 35 図 5 出処 http://www.seancamden.com/tag/maptools/ (2013 年 9 月 29 日). 36 エルマーに関してだけ言及するのであれば,My Father’s Dragon では,エルマーが竜の子 供を救出するために「どうぶつ島」に行くという内容であるし,Looney Tunes のエルマーは,本文 中に記したように,兎を狩るキャラクターなので,その作品内容から考えて,「動物」ギャグの連続 性も兼ね備えたギャグとも言える. 37 Henry III, William A. ‘A Zany Redheaded Everywoman.’ Time 8 May. 1989: p.58. 38 Horowitz, Susan. Queens of Comedy: Lucille Ball, Phyllis Diller, Carol Burnett, 30

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30

1993. ‘A Zany Redheaded Everywoman.’ Time 8 May. 1989.

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Horowitz, Susan.

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Karol, Michael. Star, 2004.

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Sitcoms. Jefferson, NC: McFarland, 2007. 有馬哲夫『テレビの夢から覚めるまで―アメリカ一九五〇年代テレビ文化社会史』(国文社,1997

31

年) ルース・スタイルス・ガネット(作)渡辺茂男(訳)『エルマーのぼうけん』(精興社,1963 年) 黒木夏美『バナナの皮はなぜすべるのか?』(水声社,2010 年) 夏目康子・藤野紀男(編)『マザーグース イラストレーション事典』(柊風舎,2008 年) ソーントン・バージェス(作)田谷多枝子(訳)『いばらやしきのピーターうさぎ』(金の星社,1981 年) 藤野紀男『図説 マザーグース』(河出書房新社,2007 年)

[映像資料] Daniels, Marc, Ralph Levy (directors). I Love Lucy. (1951). DVD. Paramount, 2005.

32

The Complete First Season

村上春樹「アイロンのある風景」を読む ―Jack London, Raymond Carver との間テクスト性からの研究 Reading “Landscape with Flatiron” in terms of Intertextuality: Jack London and Raymond Carver 山根 明敏 Akitoshi YAMANE Abstract The purpose of this study is to analyze the short story “Landscape with Flatiron” by Haruki Murakami in terms of Intertextuality. In the story, two main characters, Junko and Miyake-san, refer to “To Build a Fire” by Jack London and London’s famous story plays an important role. Murakami is known as a translator of Raymond Carver’s writings and a worshiper of them. In one of Carver’s stories, “Where I’m Calling From”, the narrator also refers to “To Build a Fire”. Taking other evidences into consideration, it can be concluded that Murakami adopted “To Build a Fire” via “Where I’m Calling from”. In addition to the Intertextuality with “Where I’m Calling From”, I will consider some other Intertextuality between “Landscape with Flatiron” and other Raymond Carver short stories, including, “Why Don’t You Dance?”, “The Compartment”, and “Preservation”. In conclusion, I would like to emphasize that Murakami needed both London’s and Carver’s texts in order to introduce the concept of “father”, which had been absent in his stories.

33

0. 序論 本論の目的は,2000 年に出版された『神の子供たちはみな踊る』の二番目に収録された短編 小説「アイロンのある風景」をとりあげ,間テクスト性,及び「父」なる概念という観点から分析を行い, この短編が村上文学における大きな転換点となっていることを示すことにある.『神の子供たちは みな踊る』に収録された作品は,いずれも村上の故郷に壊滅的な打撃を与えた,1995 年 1 月 17 日に発生した阪神大震災と関連がある.収録された 7 編の短編の中で,「アイロンのある風景」は 次のような特徴を備えていることにおいて注目に値する. (1) 作品中に Jack London の代表的な短編小説の一つである “To Build a Fire”に関する直 接かつ詳細な言及がある. (2) 作品構造が,Raymond Carver のいくつかの短編小説と酷似している.また Carver の代表 作の一つである“Where I’m Calling From”の語り手が,作品の結末に近い部分で London の “To Build a Fire”に直接言及している. (3) 『神の子供たちはみな踊る』の最初に収録された「UFO が釧路に降りる」には見いだすことの できない「父」の存在が濃厚である.この「父」なる概念は同じ短編集に収められた「神の子供たち はみな踊る」「タイランド」においても重要な役割を果たしている.

1. 「アイロンのある風景」のあらすじ 順子は高校3年生の5月に埼玉県の実家を家出し,茨城県の海沿いの小さな町で,大学生の 啓介と同棲している.コンビニの店員として働く彼女は,関西弁を話す一見風変わりな常連客三 宅さんと知り合いになり,三宅さんが時折海岸で行う焚き火に誘われるようになる.作品の冒頭で, これから焚き火をするという三宅さんからの電話が入り,順子はいやがる啓介を伴い海岸に向かう. 三人は焚き火を囲み,ウイスキーを飲みながら語り合うが,啓介は突然便意を催し,一人で家に 帰ってしまう.残された順子は三宅さんから震災のあった神戸に残してきた家族のことを聞き出そ うとするが,三宅さんの口は堅い.二人の話題は焚き火の炎が,焚き火を見つめる心を映し出す ことに及び,順子は突如自分が空っぽであることを三宅さんに告白する.三宅さんは一緒に死ぬ ことを提案するが,順子は睡魔におそわれ,焚き火が消えるまでつかの間の眠りにつくことを告げ, 作品は終わる.

2. 本論:第1章 2-1 「アイロンのある風景」と Jack London, Raymond Carver との間テクスト性 巽は『神の子どもたちはみな踊る』と Raymond Carver との関連について次のように指摘してい る.

この連作に触れて,わたしは最初,これは村上春樹がレイモンド・カーヴァーに最も接近した 連作集ではないかと思った.これまでにも長篇,短篇問わず先行者の影を感じることが少なく なかったが,とりわけカーヴァーの「ぼくが電話をかけている場所」に自然主義を代表するア 34

ル中作家ジャック・ロンドンの死に方への言及があるように,村上春樹の連作第二作「アイロ ンのある風景」においても同じジャック・ロンドンの死に方が綴られている.(190)

巽の指摘は的確なものであり,日本文学研究者による村上作品の研究において見過ごされてき た,Carve の村上作品に対する少なからざる影響という重要な側面を明らかにしている.(1)さらに 巽は「Jack London の死に方」に焦点をあてているが,“Where I’m Calling From”と「アイロン のある風景」に共通する要素はもう一つ存在する.それは London の短篇の代表作のひとつで ある “To Build a Fire”に関する言及が見られることである. まず “Where I’m Calling From”における “To Build a Fire”に関する言及を考察してみよう. 語り手は妻との平穏だった生活に暫く思いをはせたのち,妻か愛人かのどちらかに電話をする決 意をする.それに続く部分である.

I try to remember if I ever read any Jack London books. I can’t remember. But there was a story of his I read high school. “To Build a Fire,” it was called. This guy in the Yukon is freezing. Imagine it―he’s actually going to freeze to death if he can’t get a fire going. With a fire, he can dry his socks and things and warm himself. He gets his fire going, but then something happens to it. A branchful snow drops on it. It goes out. Meanwhile, it’s getting colder. Night is coming on.(296) ここで注目すべきなのは,語り手が「火を熾す」ことではなく「火を燃やし続ける」ことの重要性を繰 り返し述べていることである.直前の妻との幸福だった日の回想により語り手の心の中で,既に火 は熾っていたのである.語り手に必要なのはその火を絶やさないことである.火を燃やし続けるた めに,語り手は電話という最後に残されたコミュニケーションの手段を用いて,かつて愛し共に暮 らした女性たちとのつながりを回復しようと試みる.引用部に示されているように,一旦熾った火が 消えてしまう部分で語り手の “To Build a Fire”についての言及は終わる.火が消えることは語り 手にとって,幸福な過去の追想から,アルコール依存症という厳しい現実へと引き戻されることを 意味する.そして,再び火を熾すことができるか否かは,語り手がアルコール依存症から立ち直る ことができるかどうかという問題に直接かかわることである.語り手がここで “To Build a Fire”に関 する言及を突然止め,結末を語りたがらないのは当然であろう. “To Build a Fire”には Youth’s Magazine に掲載された 1902 年版と,全面的に書き換えられ

The Century Magazine に掲載された 1908 年版という,二種類の版が存在する.語り手が言及 しているのは,両方の版に共通する部分までであり,ここからの展開が二つの版では大きく異なる. 1902 年版では,主人公の Tom Vincent は苦心惨憺の後,再び火を熾すことに成功し,翌日 Cherry Creek Divide にある野営地にたどりつき,凍傷にかかりながらも一命を取り留める.この 版は Tom が “Never travel alone.”(62)という教訓を得たことによって締めくくられている. 35

一方 1908 年版では主人公(名前がない)は一旦火を熾すことに成功するものの,焚き火により 温められた空気によって,木の枝から落ちた雪で火が消えてしまうところまでは同じである.ここか らの展開が 1902 年版とは大いに異なる.男は再び火を懸命に熾そうとするが,寒さのため手が 麻痺してしまい失敗におわる.凍死の危機にさらされた男は暖をとるため,連れていた犬を殺し, その体内に潜り込むことにより暖をとり生き延びようとするが,もはや犬を殺す力も残されてはおら ず,朦朧とした意識の中で死を迎えることとなる. “Where I’m Calling From”の語り手がどちらの版をハイスクールで読んだのかに関して,決 定的な証拠は見当たらないように思われる.語り手が, “This guy”と発言していることから,主人 公の名前のない 1908 年版を読んだ可能性は考えられるが,語り手の “To Build a Fire”に関す る記憶はかなり曖昧であり,Tom Vincent という 1902 年版の主人公の名前を忘れていたことは十 分にありえる.Carver は語り手の “To Build a Fire”への回想を中途で終わらせることにより,内 容の大きく異なる “To Build a Fire”の二つの版を間テクストとして取り入れ,自らの作品の結末 を開かれたものにしたのではないだろうか.

2-2 「アイロンのある風景」と “Where I’m Calling From” それに対して「アイロンのある風景」における “To Build a Fire”に関する言及は,明らかに 1908 年版に基づいている. “To Build a Fire”に最初に言及するのは順子である.重要な箇所 なので全文を引用する.

順子はいつものようにジャック・ロンドンの『たき火』のことを思った.アラスカ奥地の雪の中で, 一人で旅をする男が火をおこそうとする話だ.火がつかなければ,彼は確実に凍死してしまう. 日は暮れようとしている.彼女は小説なんてほとんど読んだことがない.でも高校一年生の夏 休みに,読書感想文の課題として与えられたその短篇小説だけは,何度も何度も読んだ.物 せ と ぎ わ

語の情景はとても自然にいきいきと彼女の頭に浮かんできた.死の瀬戸際にいる男の心臓 の鼓動や,恐怖や希望や絶望を,自分自身のように切実に感じることができた.でもその物 レ









語の中で,何よりも重要だったのは,基本的にはその男が死を求めているという事実だった. 彼女にはそれがわかった.うまく理由を説明することはできない.ただ最初から理解できたの レ









だ.この旅人はほんとうは死を求めている.それが自分にはふさわしい結末だと知っている. それにもかかわらず,彼は全力を尽くして闘わねばならない.生き残ることを目的として,圧 倒的なるものを相手に闘わなければならないのだ.順子を深いところで揺さぶったのは,物 語の中心にあるそのような根源的ともいえる矛盾性だった. 教師は彼女の意見を笑い飛ばした.この主人公は実は死を求めている?教師はあきれた ように言った.そんな不思議な感想を聞いたのは初めてだな.それはずいぶん独創的な意 見みたいに聞こえるねえ.彼が順子の感想文の一部を読み上げると,クラスのみんなも笑っ た. しかし順子にはわかっていた.間違っているのはみんなの方なのだ.だって,もしそうじゃ 36

ないとしたら,どうしてこの話の最後はこんなにも静かで美しいのだろう? (44-45) 高校一年生の順子が “To Build a Fire”のオリジナル版を英語で読んだとは考え難い.「学校の 成績も自慢できたものではなかった.中学校に入った頃はクラスでも上の方だったが,卒業すると きにはうしろから数えた方が早く,高校に入るのもやっとだった」(59)という記述から判断すると,順 子が読んだのは “To Build a Fire”の翻訳であり,読書感想文を課した教科は国語である可能 性が高いと考えるのが妥当であろう.これまでに出版された邦訳は論者が調べた限りにおいては, すべて 1908 年版である.さらに,引用部分において「たき火」と題名が表記されていることを考慮 するならば,順子の読んだ翻訳は 1956 年に出版された英宝社の英米名作ライブラリーの滝川元 男による邦訳『小麦相場・たき火』であることが特定可能である.もちろんこの翻訳も 1908 年版に 基づくものである.(2) 村上は Carver の “Where I’m Calling From”を読み翻訳した際に,言及されているのが 1902 年版である可能性を既に排除していた可能性もある.英米で出版されているアンソロジーで も採用されているのは,ほとんど 1908年版である事を考慮すれば,村上が 1902 年版の存在自 体を知らなかった可能性も完全には否定できないであろう.いずれにせよ,Carver の “Where I’m Calling From”では払拭しきれない 1902 年版の可能性を,完全に排除して成り立つテクスト が「アイロンのある風景」なのである.その結果,三宅さんの熾した焚火は死へと直接つながること になる.なお村上が Carver 経由で “To Build a Fire”のテクストを自らのテクストに取り込んだ可 能性については2-4でさらに詳しく論じる. 引用部分における順子の解釈は,1908 年版の結末に近い,次に引用する部分を考察するな らば,的確で優れたものであるように思われる.

When he had recovered his breath and control, he sat up and entertained in his mind the conception of meeting death with dignity. However, the conception did not come to him in such terms. His idea of it was that he had been making a fool of himself, running around like a chicken with its head cut off―such was the simile that occurred to him. Well, he was bound to freeze anyway, and he might as well take it decently. With this new –found peace of mind came the first glimmerings of drowsiness. A good idea, he thought.

(149)

順子の解釈を国語の教師が嘲笑する部分は,村上自身の学校教育や教師に対する批判的な見 解が反映されていると考えられる.次に村上自身の学校教育や教師に対するコメントを引用して みよう.

考えてみれば,そこで(村上の出身中学)教師たちに日常的に殴られたことによって,僕の人 生はけっこう大きく変化させられてしまったような気がする.僕はそれ以来,教師や学校に対 37

して親しみよりはむしろ,恐怖や嫌悪感の方を強く抱くようになった.人生の過程で何人か優 れた教師に出会ったことはあったが,その人たちに個人的に接触したことはほとんどない.ど うしてもそのような気持ちになれなかったのだ.これもまた不幸な事である.(村上『村上朝日 堂はいかにして鍛えられたか』 23-24) 引用の(

)内は筆者による.

考えてみたら,ホールデン君と同じように,僕は学校という機構に対して今ひとつ好意が抱け なかった.勉強も好きではなかったし,したがって試験の成績もあまり芳しくなかった.授業は 退屈だったので,だいたいずっと本を読んでいた.僕はもともと「これをやれ」と上から押しつ けられた物を,素直に「はい,わかりました」と引き受けられない性格なのだ.早い話が身勝 手なだけなんだけど,自分がやりたいと思うことしか身を入れてやれない.それに加えて先生 たちの多くは,たまたまというべきか,あまり個人的に敬愛したいタイプの人々ではなかった. 教え方も感心できないことが多かったし,しばしば暴力が行使された.(村上『雑文集』 231-232) 順子に対する教師の発言は,言葉による暴力であると言えよう.またその教師の担当科目が国語 の可能性が高いことは興味深い.村上はインタビューに次のように答えている.

―あなたのお父さんは国語の先生だったのですね? 村上 そうです.だからこそそこにはまあ,よくある父親と息子の葛藤みたいなものもあったわ けです.それもあって,僕は西洋の文化にどんどん引き寄せられていった.ジャズとドストエフ スキーとカフカとレイモンド・チャンドラ-の世界に.それはまわりとは関係ない,僕一人の個 人的な世界だったんです.(村上『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』213)

以上の村上自身の発言を踏まえるならば,順子の独創的な解釈に対する教師の言動が,村上自 身の学校制度・教師に対する反発と,父親と息子との葛藤をある程度反映していると考えるのは, あながち的外れとは思われないのである.

2-3 三宅さんによる Jack London への言及 三宅さんが London に言及する部分を引用する. 「ジャック・ロンドンというアメリカ人の作家がいる」 「焚き火の話を書いた人だよね?」 おぼ

「そうや.よう知ってるな.ジャック・ロンドンはずっと長いあいだ,自分は最後に海で溺れて死 ぬと考えていた.必ずそういう死に方をすると確信してたわけや.あやまって夜の海に落ちて, で き し

誰にも気づかれないまま溺死すると」 「ジャック・ロンドンは実際に溺れて死んだの?」 38

三宅さんは首を振った.「いや,モルヒネを飲んで自殺した」 「じゃあその予感は当たらなかったんだ.あるいはむりに当たらないようにしたということかもし れないけど」 「表面的にはな」と三宅さんは言った.そしてしばらく間をおいた.「しかしある意味では,彼は 間違ってなかった.ジャック・ロンドンは,真っ暗な夜の海で,ひとりぼっちで溺れて死んだ. か ら だ

しん

アルコール中毒になり,絶望を身体の芯までしみこませて,もがきながら死んでいった.予感 というのはな,ある場合には一種の身代わりなんや.ある場合にはな,その差し替えは現実を はるかに超えて生々しいものなんや.それが予感という行為のいちばん怖いところなんや.そ ういうの,わかるか?」 順子はそれについてしばらく考えてみた.わからなかった. 「自分がどんな死にかたするかなんて,考えたこともないよ.そんなこととても考えられないよ. だってどんな生き方をするかもまだぜんぜんわかってないのにさ」 三宅さんはうなずいた.「それはそうや.でもな,死にかたから逆に導かれる生き方というもの もある」 「それが三宅さんの生き方なの?」 「わからん.ときにはそう思えることもある」(61-62)

順子の最初の発言で「たき火」ではなく「焚き火」という表記が使われていることに注目しよう.村上 は,書名としての「たき火」と「焚火をする」という行為とを,厳格に区別していることが理解できる. このことから,村上は順子が読んだ翻訳が滝川訳の「たき火」であることを再確認することが可能 であると言えよう. 順子の London に対する知識が「たき火」という短篇小説に限れていることは一見不自然である ように思われる.高等学校の読書感想文の課題の作者の生涯について,教師が全く触れなかっ たというのはあり得ることであろうか.「頭が悪いというのではない.ただものごとに意識を集中する ことができないのだ.何かをやり始めても,最後までやり終えることができなくなった.集中しようと すると,頭の芯が痛んだ.呼吸が苦しくなり,心臓の鼓動が不規則なった」(59)という順子の高校 生活に関する記述を考慮するならば,教師の説明を順子の頭が受け付けなかった可能性も大い にありえるであろう. それに対し,三宅さんの London に関する言及は,彼が London の他の作品を深く読みこんで いることを示唆している.London が「ずっと長い間,自分は最後に海で溺れて死ぬと考えていた. 必ずそういう死に方をすると確信してたわけや.あやまって夜の海に落ちて,誰にも気づかれない で き し

溺死すると」(72)の記述から,三宅さんが London が,自殺を突如を思い立ち,溺死寸前なりなが らも未遂に終わった体験を描いた,自伝的長篇小説 John Barleycorn(1913)を読んでいる可 能性が推測される.さらに London の死に関する「ジャック・ロンドンは真っ暗な夜の海で,ひとり か ら だ

しん

ぼっちで溺れて死んだ.アルコール中毒になり,絶望を,身体の芯までしみこませてもがきながら 死んでいった」(72)という描写は,自伝的長篇小説 Martin Eden(1909)の結末の描写を踏まえ 39

たものであろう.また London の死因についての発言からは,三宅さんが Irving Stone の Sailor

on Horseback(1969)を読んでいる可能性が窺われる.(5) 以上の考察から,三宅さんを介して,村上は “To Build a Fire”以外にも,少なくとも二篇の London の自伝的長篇小説と Stone の Sailor on Horseback(1969)を間テクストとしてこの作品 に取り込んでいることが推測可能である.『雑文集』に収められている村上自身の London につい ての次に引用する言及から判断するならば,三宅さんの London の死に関する見解は,村上自 身の見解とほぼ同じであると考えてよいであろう.

ジャック・ロンドンは僕と誕生日が同じで,だからというわけでもないのだが,僕は彼の小説を よく読む.ロンドンの小説世界の概要を知るには,アーヴィング・ストーンの書いた伝記『馬に 乗った水夫』を読むのが一番てっとりばやいだろう.これはロンドンの波瀾万丈の生涯を要領 よく,スリリングにまとめた読み物で,飽きずに読める.これとロンドンが書いた自伝的小説『マ ーティン・イーデン』を併読すると,彼の巨大にして複雑な人間像がかなりくっきりと浮かび上 がってくる.『マーティン・イーデン』の方は結構癖のある作品だが,読者の足を掴んでそのま ま奈落の底までひっぱりこんでしまいそうな独特の凄みがそこにはある.なにしろロンドンは, 自己の投影である主人公の作家マーティン・イーデンを本の最後で自殺させ,そのあと自分 もまたその小説をなぞるように,名声の絶頂で自殺を遂げてしまうのである(村上『雑文集』 339-340). 2-4 Carver とのさらなる繋がり 「アイロンのある風景」が Carver の強い影響のもとに書かれていることを示すのは,順子の同 棲相手啓介の言動である.Carver の作品においては “Fat”の語り手のレストランのウェイトレス や “Why Don’t You Dance?”の少女のように,偶然遭遇した他者との交流を通して大きな影響を 受け,その後の生き方が変わってしまう人物と,“Fat”の Rudy や “Why Don’t You Dance?”の Jack のように,他者との交流を通じても何の影響も受けない人物という,両極端の人物が登場す る.後者に共通するのは,他者との交流に影響されず,終始同じ話題を繰り返すということであ る. 例えば Rudy はレストランの厨房で男が太っていることのみを話題にし,帰宅後も自分が子供 だったころに知っていた二人のデブの話を語り続ける.また Jack が話題にするのはヤード・セー ルの品もの値段と支払いの方法というお金に関する話題と,自分がいかに酒に酔っているかとい う話題の二点である.さらに Rudy と Jack に共通するのは,作品の結末において存在感が著しく 小さくなるか,姿を消してしまうということである.啓介は下ネタを連発し,作品の中途で便意をもよ おし姿を消す.その意味で彼は,Carver 文学の登場人物の一方の系譜に連なる典型的な存在 であると言えよう. さらに作品構造に注目するならば,家族と離別した中年の男性と若いカップルの組み合わせ, 談笑しながらの飲酒,カップルのうち男性が途中で消える,そのあとに残された中年の男性と女性 40

との間の関係に大きな変化が生じる,という流れが浮かび上がってくる.この点において「アイロン のある風景」と “Why Don’t You Dance?”の作品構造はぴたりと一致するのである. また三宅さんのトラウマになっている冷蔵庫は, Carver の“Preservation”では象徴的な意味 合いを帯びて描かれている.突然壊れた冷蔵庫は,Sandy と夫との結びつきの崩壊を象徴して いる.また冷蔵庫が壊れた時,Sandy が懐かしく思い出すのは,父と納屋で行われるセールに行 った思い出である.ただしその父はセールで格安で買った車の欠陥が原因で命を落としている. “Preservation”の結末において,冷蔵庫は Sandy にとって父の思い出と父の死という二つの記 憶を呼び覚ますのである. 「アイロンのある風景」の結末の描写に関しても Carver の作品との関連を見出すことが可能で ある.

「少し眠っていい?」と順子は尋ねた. 「いいよ」 「焚火が消えたら起こしてくれる?」 「心配するな.焚火が消えたら,寒くなっていやでも目は覚める」 レ レ レ











レ レ レ









レ レ











彼女は頭の中でその言葉を繰り返した.焚き火が消えたら,寒くなっていやでも目は覚める. それから身体を丸めて,束の間の,しかし深い眠りに落ちた.(66)

比較検討するため,Carver の Cathedral に収められた“The Compartment”の結末を引用す る.

He leaned against the seat and closed his eyes. The men went on talking and laughing. Their voices come to him as if from a distance. Soon the voices became part of the train’s movements― and gradually Myers felt himself being carried, then pulled back, into sleep. (58) “The Compartment”の主人公は,行き先もわからない列車に揺られながら,順子と同様に束 の間の深い眠りにつくことで作品は終わっている.この作品のテーマが,父と息子との葛藤である ことは興味深い.さらに死の直前(本当に順子が三宅さんと死ぬのかは解釈が分かれると思われ る.三宅さんが死に方から導かれる生き方もあると発言していることから,順子は死を選ばない可 能性は大いにあると考えられる)に訪れる,平穏な眠りという点では,2-2で既に引用した “To Build a Fire”の結末部分とも類似する要素がある.以上のように考察するならば,「アイロンのあ る風景」の結末の部分は,London,Carver の二つのテクストとの密接な繋がりがあることが理解 されるのである.

3. 本論:第2章 41

3-1 『神の子供たちはみな踊る』に収録された他の作品との関連―「父」なるもの 『神の子供たちはみな踊る』に収録された短編小説に共通するのは,主要な登場人物が間接 的な形で阪神大震災の影響をうけ,人生が変わるような体験をすることである.「アイロンのある風 景」では三宅さんの離別した家族が神戸市東灘区に住んでおり,安否が不明であると言う点で, 阪神大震災との接点がある.阪神大震災以外にも,同じ要素が複数の作品に現れる例は多い. 順子が自分の存在がからっぽであると三宅さんに訴える部分は,「UFO が釧路に降りる」で「あな たとの生活は,空気の固まりと一緒に暮らしているみたいでした」(13)と妻に告げられる主人公小 村と「空虚さ」という要素を共有していると言えよう. 「父との確執」も繰り返し現れる要素である.具体的に論ずるならば,「アイロンのある風景」で順 子が家出をする原因の一つは,思春期を迎える頃から父親が「それまでとは違った奇妙な視線」 (50)で自分の事を見るようになり,父親の顔を見ることが苦痛になったからというものであり,父親 との近親相姦の可能性に対する恐怖を順子が持っていたことが示唆されている「神の子供たちは みな踊る」では主人公の善也が父親と思われる人物を実際に追跡する.またこの作品では「母親 と致命的な関係におちいることを恐怖するが故に」(72)性欲を必死になって発散する相手を求め るという描写において,母親との近親相姦の恐怖が語られている.「タイランド」では主人公のさつ きの父親が癌で死去してから人生が大きく変化し,母親が父親の死後一ヶ月もたたないうちに, 父親が大切にしていたジャズ・レコードのコレクションとステレオ装置を処分してしまったことが,さ つきの人生を狂わせたことが述べられている.さつきは「神戸のあの男」を深く呪い,震災で「家が ぺしゃんこにつぶれてしまえばいいのに」(110)と念じる.男には家族があることが示唆されており, さつきが男によって妊娠させられ,妊娠中絶させられた可能性が示されている.男がさつきに接 近したきっかけが,さつきの母が亡父の遺物を死の直後に処分したことであると考えるならば,さ つきの母が「あの男」と再婚した可能性も否定できない.そのように考えるならば,さつきを妊娠さ せた男は母と再婚した義理の父であったことになる.少なくとも,父の喪失感を埋めるために,さ つきが神戸の男性と性的な関係を持ったであろうことは想像に難くない. 内田は「村上文学には『父』が登場しない.だから,村上文学は世界的になった」(37)と喝破し, 「人間は『父抜き』では包括的な記述をおこなうことができない」(40)と指摘する.その理由として内 田は「『父』抜きでは,私たちがいま世界の中のどのような場所にいて,何の機能を果たし,どこへ 向かっているかを鳥瞰的,一望俯瞰な視座から俯瞰することができないからである」(40)と述べ, 「村上春樹は(フランツ・カフカと同じく),この地図もなく自分の位置を知る手がかりの何もない場 所に放置された『私』がそれでも当面の目的地を決定して歩き始め,偶然に拾いあげた道具を苦 労して使い回しながら,出会った人々から自分の現在位置と役割について最大限の情報と,最大 限の支援を引き出すプロセスを描く」(40)と論じている. 村上自身はインタビューの中で,『ねじまき鳥クロニクル』の中に父親の影がないという指摘に 対して,次のように答えている.

僕の書くほとんどの小説は一人称で書かれています.主人公の主要な役目は,彼のまわりで 42

起こっていることを観察することです.彼は彼が見なくてはならないものを,あるいは見るよう に求められている物を,リアルタイムで目にします.彼はそういう意味では『グレート・ギャツビ ー』におけるニックの存在に似ているかもしれない.彼は中立的な立場にいます.そしてその 中立性を保持するためには,彼は肉親から離れていなくてはなりません(村上『夢を見るため に毎朝僕は目覚めるのです』240-241)(3)

ここで興味深いのは,このインタビューが『神の子どもたちはみな踊る』の後に行われていることで ある.村上は一人称の語り手に語らせるために,父親の存在を排除してきたと述べている.しかし, 『神の子供たちはみな踊る』はすべて三人称の語り手が採用されている.さらに『神の子どもたち はみな踊る』に収録された短編の登場人物たちの中には,「アイロンのある風景」順子の順子や, 「神の子供たちはみな踊る」の善也のように,父の存在を強く意識している人物たちがいる.その ような人物たちは,「父」を希求し,あるいは嫌悪することによって自らの生を生きている.村上自 身の発言から,『神の子供たちはみな踊る』における「父」なる存在の導入は,小説の語りの問題と いう重要な問題と分かちがたく結びついていることがここで理解されるのである.(4)

3-2 「アイロンのある風景」と「タイランド」との共通点 「アイロンのある風景」の順子は「父」実父への性的な嫌悪感により,父から逃避し,現在の状況 に身をおいている.しかし,彼女が嫌悪するのは「父」と性的欲求との結びつきであり,性的な欲 求自体は否定していないことは,同棲相手の啓介の発言が著しく性的な発言を繰り返しているこ と,及び順子自身,三宅さんの起こす焚火に関して「熟練した愛撫のように,決して急がないし, 荒々しくもない」(49)という極めて性的な比喩を用いていることから明らかである.さらに「そこにあ る炎は,あらゆるものを黙々と受け入れ,呑み込み,赦していくみたいに見えた.本当の家族とい うのはきっとこういうものだろうと順子は思った」(49)という描写から,順子が「父」が当然含まれるで あろう,家族というものを希求していることが示唆されている.これらのことを考え合わせるならば, 順子が嫌悪しているのは「父」の存在自体ではなく,セクシャルな要素を帯びた「父」の存在である ことが理解可能である.そのように考えるならば,「アイロンのある風景」と「タイランド」の結末が酷 似していることは注目に値する.「タイランド」の結末部分を引用してみよう.

彼女はこれから先のことを考えようとして,やめた.言葉は石になる,とミニットは言った.彼女 は座席に深くもたれ込み,両目を閉じた.そしてプールで背泳ぎをしている 時に見あげた 空の色を思い出した.エロ-ル・ガ-ナ-が演奏する『四月の思い出』のメロディーを思い出 した.眠ろうと彼女は思う.とにかくただ眠ろう.そして夢がやってくるのを待つのだ.(125)

エロ-ル・ガ-ナ-の曲をさつきの実父が愛聴していたことを考慮するならば,さつきは愛する実 父の思い出に浸りながら,父の死後にさつきに不幸と憎悪をもたらした人物を束の間忘れるべく, 眠りにつこうとしていることがわかる.「父」への憎悪と「父」の希求という,相反する感情を描いてい 43

るという点で,「アイロンのある風景」と「タイランド」は密接なつながりがあると言えるのである.(6)

4. 結論 本論では第1章において「アイロンのある風景」と London,Carver のテクストとの間テクスト性 を,第2章においては『神の子どもたちはみな踊る』に収録された,他の作品との間テクスト性につ いて,主として「父」なる概念という観点から考察してきた. ここで根源的な疑問が生じる.村上は何故「アイロンのある風景」において London と Carver のテクストを取り込む必要があったのだろうかという問いである.その問いに対する答えとして,次 のことが考えられる.『神の子どもたちはみな踊る』の冒頭に収められた「UFO が釧路に降りる」と いう短篇は,「内面の空虚さ」と阪神大震災という他の短篇との共通項がある一方で,「父」という概 念をそこに見出すのは困難である.「父」という概念は二作目の「アイロンのある風景」から出現し, 三作目の「神のこどもたちはみな踊る」においては主人王が「父」である可能性のある人物を実際 に追跡することが作品で描かれている.更に「父」のテーマは四作目の「タイランド」において, 「父」の喪失と「父」の死後に現れた男への憎悪という形で受けつがれている.五作目の「かえるく ん東京を救う」は「父」の要素を見出すのが困難な作品であるが,最後の「蜂蜜パイ」において,淳 平と高槻とのホモソ-シャルな関係の背後に,「父」と家族のテーマは再び現れる. このように考えるならば,本論で論じてきた「アイロンのある風景」は,この短編集に「父」なる概 念を導きいれるための嚆矢となった作品であったことがわかる.その作品に村上が London と Carver の複数の作品を間テクストとして取り入れていることは興味深い.London はその生涯に おいて,自分を妊娠中の母に中絶を迫り,さらに母と自分を捨てた,実の父とされている William Chaney を激しく憎悪する一方で,心の中では強い思慕の念を抱き続けた作家であった.また Carver は実生活における自らの経験に基づいて,親と子,特に父と子との葛藤を,繰り返し描き 続けた作家であった.そのように考えるならば,村上が「アイロンのある風景」でこの二人の作家に 深くかかわったことは,単なる偶然ではないと考えられる.村上は『神のこどもたちはみな踊る』以 前の作品で意図的に回避してきた「父」なる概念を新たに導入するために,London, Carver の テクストを取り込む必 然性を感じたのではないだろうか. 本論で論じてきた「アイロンのある風景」では,この作品以前の村上作品では不在であった「父」 なる概念が導入されたという点において画期的な意味を持つと考えられる.さらに父との近親相 姦に対する恐怖と嫌悪が,順子の生き方を変えるほどの影響力を持つものであることが描かれて いるのは興味深い.「父」なる概念は更に『海辺のカフカ』(2002)において,「父」の息子に対する オイディプス的呪いと,息子による父殺しという形に発展することになる.これらのことを考慮する ならば,本論で分析した「アイロンのある風景」は村上文学における重要な転換点となる作品であ り,村上の長編小説の代表作の一つである『海辺のカフカ』へと直接結び付けられる要素を内包 した,極めて大きな意味を持った作品であることが理解されるのである.

44

注 (1) 黒川は,「フロンティア時代のメルヴィル,ロスト・ジエネレイションのフィッジェラルド,1950 年 代のサリンジャー,これに現代文学のヴォネガット,アーヴィング,あるいはティム・オブライエ ンやトルーマン・カポーティを加えれば,村上春樹のアメリカ文学との関わりの地勢図ができ る」と指摘しているが,何故か Carver の名前は欠落している.また吉田は,村上とカーヴァー の関連について詳細に論じているが,結論として導き出されるのは「アメリカ中間下層階級の 立ち直りとその現前性に共感を寄せるカーヴァーと,彼らの同じ行為に暴力性を嗅ぎ取って しまう村上春樹」(133)の部分において示されているように,両者の類似点ではなく,差異であ ることは注目に値する. (2) 順子の作品に対する反応を考察している田辺による先行研究においても,順子が読んだ版 は 1908 年版であると断定されている. (3) 村上はこのように述べているが,The Great Gatsby の書き出しは “In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I’ve been turning over in my mind ever since.”(7)であり,実はニックの思考や行動には父親の強い影響があること が示唆されている.この点において,村上の発言は矛盾していると考えられる. (4) 福田は『神のこどもたちはみな踊る』において村上の文章が完全に変わっていると論じ,「これ まで,きわめて話者の存在感が強い,語り手の雰囲気や好みを色濃く漂わせた一人称の世 界を展開してきた氏が,本書においては,三人称的世界,話者と登場人物の間に明確な距 離を設定した叙述に転換している」と論ずるが,「父」なる物との関連性については触れてい ない. (5) Stone の London がモルヒネによる自殺であるとする説は,Sinclair のように疑問視する声も ある.本当の死因は尿毒症であり,モルヒネの服用は尿道結石による激痛を抑えるためであ ったという見解も存在する(ただし,日本ジャック・ロンドン協会のホームページでは,現在でも 「モルヒネの服毒による自殺」と明記されている). (6) 「タイランド」に関しては,浅利が詳細に分析している.しかし浅利はさつきの神戸の男に対す る憎悪が何らかの形で「父」なる概念と関わっている可能性には言及していない.

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欽定訳聖書における Rose of Sharon ―どのように「誤訳」が生じたのか― On the “Rose of Sharon”: the Background of Mistranslation 溝田悟士 Satoshi MIZOTA Abstract The purpose of this paper is to analyze the translation history of the “Rose of Sharon”(Canticle 2:1) in the Authorized Version, as viewed from the theory of translation studies. This research concerns the following five issues. The first is the translation by changing parts of speech from a preceding version. The second is the validity of word selection based on etymology. The third is the reproduction of mistranslations affected by traditional errors in lexicons. The fourth issue is the strategy of word selection based on the other already-decided words. And the final matter concerns the death of the code caused by the death of language.

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1.研究の目的 世界の聖書訳に重大な影響を及ぼし続けている欽定訳聖書 The Authorized Version (1611 年:略称 KJV)の旧約聖書・雅歌 2:1 には,次の句が存在している. I am the rose of Sharon, and the lillie of the valleys.(欽定訳:1611 年) わたしはシャロンのばら,野のゆり. (新共同訳:1987 年) この ‘Rose of Sharon’( 「シャロンのばら」 )という表現は,恋の歌(相聞歌)である雅歌 を代表する表現として,英語圏では文学作品などにも多数引用されるほどに,人口に膾炙 『怒り している.例えば,John Ernst Steinbeck(1902-1968)の The Grapes of Wrath( の葡萄』 :1939 初版)の登場人物の名前(略称 Rosasharn)になっている 1 ほか,ムクゲ (Hybiscus syriacus L.)の英語名としても使用されている. しかし批判的な諸研究は,ヘブライ語 habatselet に対応する欽定訳の rose という訳語 を「誤訳」だと指摘し続けている.例えば,ヘブライ語学者ヴィルヘルム・ゲゼニウス (acid) (Wilhelm Gesenius:1786-1842)は,語源学的な観点から habatselet が「酸性の」 あるいは「苦い」 (acrid)という意味を持つ hamets の語根と, 「球根」 (bulb)という意 味を持つ betsel という二つの語の roots(語根)から成り立っていると主張している 2.そ れ以降も,クロッカス(crocus)あるいはスイセン(narcissus)などであると主張されて いる 3.つまり現代の批判的な諸研究は,この habatselet は rose(バラ)ではなく「球根」 に関連する植物であるという点で,ほぼ見解を一致させているが,具体的な「種」の特定 については合意に至っていないわけである 4.なお,この habatselet は,旧約聖書にはこ の雅歌 2:1 のほかに一箇所のみ,イザヤ 35:1 にも存在するので,分析は同時に行う必要が ある. このように,欽定訳の rose が誤訳であることが指摘され続けては来たが,その「誤訳」 が採用された経緯やその起源に関しては,包括的な研究はほとんど存在しなかった.そこ で,本研究の前身である Mizota (2008)(注*を参照)では,この Rose of Sharon という 箇所に関する過去に多言語で行われた先行訳および原典に関する文献学的な遡及分析を行 い, 「誤訳」の起源と原義についての仮説を提示した. 本研究では,前身である誤訳の起源についての Mizota (2008)における文献学的分析を 振り返り,その後の分析によって判明した新たな成果に触れる.その上で,それらの分析 から浮かび上がるテクスト言語学上の理論上的問題を指摘する.

2.欽定訳からの遡及分析 まずは, Mizota (2008)における文献学的分析の概略を振り返った後に(2-1から2 -5まで) ,それ以降の研究において判明した分析結果を提示する(2-6) .

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2-1.欽定訳における翻訳手法 そもそも欽定訳の翻訳の現場で,どのような先行訳が参照されたのかという疑問からは じめなければならない.翻訳者たちは,‘The Translators to the Readers” (翻訳陣から読 者たちへの序文)で,次の言語の翻訳,注解書を参照にしたと明言している. ヘブライ語(Hebrewe) , ギリシャ語(Greeke) , ラテン語(Latine) , シリア 語(Syrian) ,カルデア語(アラム語) (Chaldee) , スペイン語(Spanish) , フ 5 ランス語(French) ,イタリア語(Italian) , ドイツ語(Dutch) . この証言に基づいて Westcott (1905)は欽定訳の翻訳に用いられて先行訳および参考資料 の分析を行っている 6.その分析をもとに Mizota (2008)では,欽定訳が参照した先行訳に おける雅歌 2:1 のテクストを「表1」のように調査し列挙している.

表1:欽定訳聖書の訳者に参照された先行訳とその雅歌2:1における比較

(BHS /Heb.) ’ani habatselet hasharon, shoshanah ha’amaqim. (LXX /Gk.) )Egw¥ a)¥nqoj tou= pedi/ou, kri/non tw=n koila/dwn.()( (The Vulgate /Lat.) ego flos campi et lilium convalium. (Luther: 1524 /Ger.) Jch byn eyne blume zu Saron, und eyn rose im tal. (Pagninus: 1528 /Lat.) Ego rosa campi, & lilium cōvallium. (Tyndale. Sup.: 1534 /Eng.) I am the floure of the felde, and lylyes of the valeyes. (Coverdale: 1535 / Eng.) I am the floure of the felde, and lylie of the valleys. (The Great Bible: 1539/ Eng.)I am the lylie of the felde, and rose ye valleyes. (Luther: 1545 / Ger.) Jch bin ein Blumen zu Saron, und ein Rose im tal. (Matthew: 1549 / Eng.) I am the floure of the felde, and Lylye of the valleys. (Geneva: 1560 / Eng.) I am the rose of the field, & the lilie of the valleys. (Bishop's Bible: 1568/ Eng.) I am the rose of the fielde, and lillie of the valleys. (Cassiodoro: 1569/ Sp.) Yo soy el Lirio del campo*, y la rosa de los valles. * (de Sarón) 2-7を参照] (Antwerp Polyglot: 1572) [2-7を参照 2-7を参照 (Bertram: 1587-8/ Fr.) Ie svis la rose de Sçaron, & le muguet des valees. (Cipriano: 1602 / Sp.) Yo soy la rosa de Sarón, y el lirio de los valles (Diodati: 1607 /Ita.) Io son la rosa di Saron, il giglio delle valli. (KJV: 1611/ Eng.) I am the rose of Sharon, and the lillie of the valleys.

Mizota (2008)では,この「表1」から雅歌 2:1 における欽定訳の翻訳方針を下記の二点と

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分析し,欽定訳の翻訳者たちは,雅歌 2:1 の翻訳に際して,先行訳に完全に依存しており 独自の検討を行っていないと主張した.

(1) 欽定訳の訳者らは rose of Sharon の表現を,直近の Bertram のフランス語訳, Cipriano のスペイン語訳,Diodati によるイタリア語訳から直接借用している. (2) また,habatselet の訳語として,古代語訳および初期の英訳での a)¥nqoj や flos, flower などの単に「花」の意味を表すだけの伝統的な訳語を排し,rose の訳語を決 定付けた Pagninus のラテン語訳(1528 年)も根拠としている. 2-2.先行する近代語訳における問題点 先ほどの「表1」の中で注目すべきは,宗教改革者ルターMartin Luther(1483-1546) が他の翻訳に抗って,2:1 前半の habatselet ではなく後半の shoshanah のほうを Rose と訳していることである.ちなみにルターが初版の時点から自分の雅歌 2:1 の訳に一貫し た自信を持っていたと考えられる.なぜなら,ルターの翻訳原稿(1523-4)に赤インクに よる手直しをした痕跡が見えないこと,その後の 1524 年の初版,および 1545 年の最終版 においても変更されてはいないからである 7. いずれの訳語が正当なのかに答えるためにも,このような訳語の交代という現象が生じ たのはなぜか,その原因を明らかにしておく必要がある.そこで Mizota (2008)では,こ のような訳を採用するに至ったルターの意図を,ユダヤ教とヘブライ語に造詣の深かった 人文学者ヨハネス・ロイヒリン Johannes Reuchlin(1455-1522)を深く尊敬し,影響を受 けたからだと分析している. ル タ ー は 1509 年 に は す で に , ロ イ ヒ リ ン の ヘ ブ ラ イ 語 入 門 書 De Rudimentis

Hebraicis(1506)を入手していた.しかしルターは,実際の翻訳では後半の shoshanah を バラとみなしているので,この入門書の巻末語彙集(glossary)の定義を利用していない ことになる 8.そこで,ルターがロイヒリンに由来するどんな情報に接触したのかという 疑問が生じる. そこで Mizota (2008)で着目したのは,ロイヒリンの著作『ユダヤ人の書物についての 鑑定書』(Gutachten über das Jüdishe Schriften(1510))である.この著作には,雅歌 2:1 ではないが,同じように shoshanah を含んでいる直後の 2:2 の部分訳が含まれている.

wie die roßen in ‘n dornen9 イバラの中のバラのように, (筆者訳)

Mizota (2008)では,このロイヒリンの『鑑定書』に感銘を受けたルターが, 『鑑定書』に 存在した 2:2 の部分訳への執着を持ち,自らが実際に翻訳する際に 2:1 の shoshanah を Rose であると逆算して解釈しようと試みた,と分析した. 51

この仮説を保証する根拠として,Mizota (2008)では次の二つの文献証拠を挙げている. (1)ルターは「九十五箇条」の前年(1516 年)のラテン語の書簡で,雅歌 2:2 をロイヒ リンと同様に解釈していること 10. (2)さらに,ルターは 1521 年のドイツ語による書簡 で,雅歌 2:2 をロイヒリンに酷似した表現で翻訳していること(wie die rosen unter den dornen)11. いずれにせよルターがヘブライ語の情報と接触したのは,ロイヒリンの著作と接触した ことによるのであって,ユダヤ人との直接的な接触による導入ではないことは明らかであ ろう.ルターがロイヒリンの著作に接触したのは,ルターが聖書翻訳に精を出しヘブライ 語の解釈のためにユダヤ人との積極的な接触を行うよりもかなり以前,つまり「宗教改革」 の発端とみなされる「九十五箇条」 (1517 年)を彼が貼り出すより以前のことになるわけ である. 一方,Mizota(2008)では,ロイヒリン自身が何を参照したのかは判明しなかった.しか し,ロイヒリンに影響を与えたと考えられるのは,下記のいずれかの結論に収斂すると主 張した.

(1)ロイヒリンの引用例にある聖書学者 Hieroniymus(c.342-420)の『イザヤ書 注解』を参照した. (2)ロイヒリンの蔵書にあったアラム語の注解的な訳である『タルグム』 (Targum) (A.D.7-8 世紀成立)を参照した.

ここで Mizota(2008)は, 『タルグム』の解釈も,ヒエロニムスの『イザヤ書注解』も,結 局は双方ともにアキュラスのギリシャ語訳(A.D.2世紀)アキュラスにさかのぼるという 点に,注意を促している. 2-3.古代の解釈とギリシャ語ギリシャ語の辞書における ka/luc の定義 さて,そのアキュラスの訳は教父オリゲネス Origenes(c.185-c.254)の( 「六欄対訳旧約 聖書」 )に残存断片が存在する.Hexapla は 7 世紀にイスラム教徒によって部分的には散 逸したものの,アキュラスによる雅歌の 2:1 の後半部分は,次のように残っている. kalu/kwsij tou= Sarw/n12 (kalu/kwsij of the Sharon) ちなみに,上記でアキュラスが habatselet の訳語として採用している kalu/kwsij には, 元来, 「バラ」という意味は一切含まれていない

13.従って

Mizota(2008)では,何らかの

ギリシャ語の辞書との接触があったために,ヒエロニムスも,タルグムの注解者も,この アキュラス訳における kalu/kwsij をバラと訳したと推定した. 52

ヒエロニムスの『イザヤ書注解』では, “ut significantius expressit Aquila, KALUKWSIS , quam nos tumentem rosam et necdum folis dilatatis possumus dicere.” 14 がく

我々が folium(萼?)がまだ開いていない咲きかけのバラと(tumentem rosam)呼 ぶことの出来る kalu/kwsij とアキュラスによって言い表された意味のように. (筆者 訳)

となっており,ヒエロニムスが,アキュラスを参照していたことはこの箇所から明らかで ある.さらに,kalu/kwsij は,関係代名詞 quam によって導かれる節によって修飾され ている.Mizota(2008)はこの修飾節の内容が「辞書」的な説明の特徴を持っていると判断 し,内容の合致を見る定義の存在を根拠にギリシャ語における「辞書」の系譜のなかに起 源を求めている. 一方,タルグムが作成された当時はギリシャ語に精通したユダヤ人たちが多数存在して おり,語源的解釈で評価の高かったアキュラスのギリシャ語訳に権威を求めた 15.タルグ ムに基づく雅歌 2:1 相当箇所の英訳は以下のようになっている. The Congregation of Israel says: ‘When the Master of World causes His Shekinah to dwell in the midst of me I may be compared to a fresh narcissus [narqis] from the Garden of Eden, and my deeds are as fair as the rose [warda] that is in the plain of the Garden of Eden. 16 このタルグムの雅歌 2:1 におけるアラム語の warda と印欧語系の rose の間には語源学的 つながりがあること同義性が保証されている 17.したがって Mizota(2008)では,タルグム の訳語 warda もギリシャ語辞書に起源があると想定している. 2-4.ギリシャ語の辞書の系譜における ka/luc の意味の再検討 ギリシャ語の辞書の伝統は古くさかのぼることが出来る.まず検討すべきは,5世紀の 文法家ヘシュキオス Hesychius による「辞書」である Synagōgē pasōn lexecōn kata

stoicheion(文字配列語彙総覧)の次の箇所であろう. ka/luc: *The flower of the rose ASg, the not-opened flower, the bride. Sgn. The ear-ring. And the golden pipe which binds the curling-hair (S401). Some people render embryos into ka/luc, on the other hand, the other people render [them] into blasth/ma. In addition, [they] indicate the sea-snail.18(筆者訳) ここで,「バラ」の定義が存在していることに注目したい.ヘシュキオスはこの項目を

Glossa Cyrilliana(『キュリロスの語彙集』)から取ったと考えられている. この『キュ 53

リロスの語彙集』はアレクサンドリアのキュリロス Cyril of Alexandria(378-444)自身 か,その時代の人物によって編まれたものであると想定されている.参照できた写本 E(Codex Bremensis G 11)の校訂では, ka/luc : a)nqoj r(o/dou mh/pw a)noixqe/n19 ka/luc : いまだ開いていないバラの花(筆者訳) と定義されている.この『キュリロスの語彙集』は,先述のヒエロニムスの「咲きかけの バラ(tumentem rosam) 」という文言と非常に似ている.従って Mizota(2008)は,ヒエ ロニムスがこの『キュリロスの語彙集』か,その祖形となる辞書資料を利用した可能性が 高いと判断している. さて,このギリシャ語辞書が持つ定義の起源が問題である.Mizota(2008)は,ka/luc に 元来存在しない「バラ」の意味を辞書が取り込んだのは,辞書の成立過程にスコリアの影 響が残存し,中世の辞書を経て近代以降の「辞書」にも影響を与えていると主張した. Mizota(2008)が着目したのは,古代から編纂されてきた『ホメロスの古註(スコリア) 』 (Homeri Scholia)である. このお二人のところで,私は,九年の間を,いろんな鍛冶の細工に技巧をつくしてい うずまき

うてな

たものさ,ブローチだの,曲った螺旋留めだの, 蕚 形の飾り ka/lukaj だの,ネック レースだのを,中のうつろな洞穴でな. (Il. S 400-01:高津訳)20 上記の『イリアス』の ka/lukaj という箇所について,紀元2世紀以前に遡る可能性が高 い写本 A(Venetus Graec. 822)に残されているスコリアは,次のように注を振っている. ka/lukaj: e)mferh= r(o/doij21 ka/lukaj [fem.acc.pl.] : answering to roses(筆者訳) Mizota(2008)では,この証拠をもとに『キュリロスの語彙集』に至るいずれかの辞書の系 譜の編纂者がこの「ホメロス注解」の「注」を「定義」として理解したのだと推測した.

2-5. 『七十人訳聖書』における「品詞交換」と原典における意味の想定 『七十人訳聖書』 (略称 LXX)は B.C.3世紀~A.D.2世紀という長期間にわたって徐々 に形成されたギリシャ語訳であるため,文書ごとに翻訳された年代が異なっている.イザ ヤ書の翻訳は B.C.2 世紀にはすでに成立していたが,雅歌の翻訳に至っては A.D.1 世紀頃 のものである 22. 従って,イザヤ 35:1 の habatselet を kri/non(ユリ)と同定した B.C.2 世紀の『七十人 54

訳聖書』が,確認できる限りでは最初の他言語への翻訳ということになる.しかし,その 後に成立した「雅歌」の翻訳では a)¥nqoj(花/2:1)と訳されていることに注目すべきであ る.なぜこのような相違が生じたのだろうか.先に訳されたイザヤ 35:1 の前後のコンテク ストを見てみよう.

habatsalet のように栄える(pharath) kai¥ a)nqei/tw w(j kri/non [and will flourish like a lily] 注目すべきは,ここで使われている動詞 pharath が,a)nqe/w(to flourish)という「動詞」 として訳されていることである. Mizota (2008)では,おそらく『七十人訳』の雅歌の翻訳者が habatselet の原義をもは や知らなかったため,対応する訳語を見つけるために同じ語を含んだ文献を探し,かなり 先に成立していたイザヤ 35:1 の kri/non(ユリ)という訳語を発見したのだと推測した. そこからさらに Mizota (2008)では,雅歌の翻訳家が何らかの理由で kri/non(ユリ)とい う訳語の妥当性を疑ったことで「ユリ」という訳語を退けたが,代わりの語をその付近に ある a)nqe/w(花咲く)という動詞から,その名詞形 a)¥nqoj(something to flourish→花) を導き出すという「品詞交換」(changing parts of speech)を行い, habatselet の訳語と して雅歌 2:1 の翻訳に用いた,と推測した. また Mizota (2008)は,ヘブライ語の原義について,①イザヤ 35:1 の動詞 pharath が, 現代アラビア語において「子宮から外へ出る」,「孵化する」などの意味を持つ語根‫فرخ‬ (f-r-x)と同源であること,②また分析の結果, 「 (Kaf (‫)כּ‬+‘新鮮な緑色の成長過程にある何 か’)+pharath」というコロケーションを形成していること,という二点から,pharath に支配される(ka-)habatsaleth が「新鮮な緑色の成長過程にある何か(のように) 」で あると想定し,habatselet の元来の意味は「芽吹きつつある球根」だと新たな主張をして いる. 従って,ヘブライ語の habatselet の元来の意味は「芽吹きつつある球根」であったと思 われる.雅歌とイザヤ書の原著者たちはこの語を使用した後,ヘブライ語自体が話者の途 絶した「死語」となった.それ以降,この語の「翻訳」の努力が始まったのである.

2-6.Mizota(2008)の分析の再検討 ここまで Mizota(2008)に基づいて,原典から欽定訳の「誤訳」が誕生するに至るまでの 経緯を辿ったが,それ以降の研究で判明した新たな二点の文献証拠を提示し検討する. (1)欽定訳聖書の翻訳陣が参照したと推定されている『アントワープ多言語訳聖書』 (Antwerp Polyglot)は日本国内では在庫を確認できず,インターネットなどを通しても 公開されていなかったため,Mizota(2008)執筆の時点では内容の確認をすることが出来な

55

かった(2-1の表1を参照) . その後 2012 年 12 月からユトレヒト言語学研究所研究員として在籍した際に,同大学附 属図書館でその原本を確認することが出来た(書名は Biblia sacra, Hebraice, Chaldaice, Graece, et Latine にて蔵書) .雅歌の当該ページは見開きで上段が左から①ヘブライ語本 文,②ヒエロニムスのラテン語訳(ウルガタ) ,③『七十人訳聖書』のラテン語訳,④ギリ シャ語訳である『七十人訳聖書』の本文が配置されており,さらに下段には⑤ヘブライ文 字で表記されたアラム語のタルグム,⑥タルグムのラテン語訳が記載されていた. 注目すべきは⑤のタルグムと⑥のラテン語訳である.ラテン語訳の表題は CHALDAICAE PARAPHRASIS TRANSLATIO IN CANTICA CANTICORVM, EX BIBLIOTHEKA COMPLVTEN となっており,スペインのコンプルトゥムの図書館に存 在した資料がもとになっていることを示している. 本文および訳はスペインのユダヤ教のラビで後にカトリックに改宗した Alfonso de Zamora(1476-1544) の 1517 年のラテン語訳草稿とほぼ同じものであることを確認した. この草稿は“Interpretatio chaldaica ab Esther ad Cantico canticorum”として 2013 年 6 月現在,Google Books にて閲覧することが出来る. (2)すでに Mizota(2008)では,ホメロスの注解がギリシャ語のレキシコン形成に影響 し,さらに聖書翻訳にまで影響した点を指摘した(2-4を参照) . さらにその後の研究によって,その影響が近代の批判的精神のもとに編集されたギリシ ャ語辞書によっても十分な検討がされて来なかったことを保証する辞書の記載を発見した. それはヨハネス・スカプラ Johannes Scapula(c.1540-1600)の編集に始まる Lexicon

graeco-latinum(1665)における下記のような定義である. ka/luc, ukosij, rosa clausa, & quasi dicas tecta. 23 ka/luc, ukosij, h¥ [fem.] closed rose, as it were, covered [rose].(筆者訳) この定義は,聖書の近代語訳成立と同じ時代以降において,なお強い影響を持っているこ とが分かる資料である. 従って,近代に至るまでのギリシャ語の辞書の歴史に,ホメロスのスコリアの影響が再 生産され続けていることが確認できる.

3.欽定訳に至る聖書翻訳史が示す翻訳理論上の問題点 以上,Mizota(2008)およびそれ以降継続された研究によって,判明した点を振り返って きた.ここからは,以上の研究で判明してきた雅歌 2:1 の翻訳過程から浮かび上がるテク スト言語学,特に翻訳理論上の問題点を考察する.

3-1.出発点としての「言語の死」による「コードの死」 56

なぜ,定義が間違っていることがわかりながら,訳語が安定しない状態が生じるのだろ うか. それは,旧約聖書に使われているヘブライ語が, 「死語」となったことが原因であ る. 言語学者の高津春繁によれば,そもそも言語学の概念としての「死語」は,その「言語 が使用者を失って,言語行為が停止するとともに,その言語は言語に必ず伴う言語変化を 停止」した言語のことである.つまり,ラテン語のように使用が存続されていても,第一 言語話者が存在せず,言語変化を喪失した言語も死語に含める 24. 従って,以上の比較言語学者である高津春繁によるごく一般的な「百科事典」の「定義」 に基づくと,旧約聖書のヘブライ語は,その後文書および祭儀や宗教教育などの伝承とい う必要において使用が存続されていたにせよ,生活言語としての「第一言語話者」が途絶 えたという点で自然な言語変化に決定的な打撃を蒙っていることから,明らかに「死語」 に分類されると考えられる. 本研究においては,以上のような<<第一言語話者が途絶したことによる「自然」な変化 の機会を失った言語を「死語」とする>>という公理化された「定義」に基づいて, 「言語 の死」の概念を提唱したい. このような「言語の死」が生じるとともに,残り続けてきた「手がかり」すらも急速に 失われていく.旧約聖書には Hapax Legomena(=nonce words)つまり,一度だけしか出現 しない語や表現が 1500 ほど存在し,全くの未知の語根(new coinage)か,特定の意味に しか導けないものが 400 ほど存在する,と言われている

25 .われわれが扱っている

habatselet という語は,Hapax Legomena ではないものの旧約では2箇所にしか登場せず, 意味が不明な語であることに違いはない.これは言語が「第一言語話者」を喪失する「言 語の死」を迎えることによって,語の意味へのアクセスが正確に出来なくなったことによ って出現した現象である. このような状況を説明するために,Nida & Taber(1969)による下記のモデルを用いるこ とにする 26.このモデルは下図のように,対応する訳語を見つける翻訳行為が中間言語構 造 X および Y を介して行われることを示している.

57

通常は,A-X 間の「分析」(analysis),X-Y 間の「転移」(transfer),Y-B 間の「再構成」 (restructuring)の順で,翻訳が行われる.このうち「分析」とは「ある原語 A の表面構造 を文法的関係と語句の意味の両面から分析する」こととされている 27. しかし,第一言語話者が途絶したヘブライ語において,なお A の意味が不明ないし「あ いまい」な場合,翻訳はどうすればよいのだろうか.これが死んだ言語の翻訳に直面せざ るを得ない翻訳者たちを苦しめてきた問題の核心である.上記の Nida & Taber モデルに 即して言えば,A-X の「分析」の経路が途絶しているため,X-Y の「転移」が不可能な状 態のことである. この状態を, 「言語の死」によってある言語の source と receptor に共通する「コードの 死」を引き起こしていると説明することが出来るはずである.言語学者ロマーン・ヤーコ ブソンは『一般言語学』の中で次のように述べている. 次にメッセセージはコード code を要求する.これは発信者と受信者(言い換えれば メッセージの符号化者と複号化者)に全面的に,あるいは少なくとも部分的に,共通 するものでなければならない.28 その上で,ヤーコブソンは戦時中の日本語の暗号解読を例に挙げて,次のように述べる. 知らない言語を解く言語学者の立場は[通常とは]全く違う.彼はメッセージからコー ドを引き出そうとする.29 もし, 「生きている言語」であれば妥当なコードを引き出せる可能性は,一般的に高いと 考えられる.翻訳者が翻訳対象の膨大な文献を参照でき,直接当該言語の第一言語話者に も確認できるためである.しかし「死んだ言語」 (あるいは当該言語話者との接触不能の状 態に陥った場合)には,コードを引き出すこと自体が困難,あるいは不可能となる.その 状態になれば,暗号解読のような翻訳にならざるを得ない.古代から行われ続けてきた聖 書の Hapax Legomena およびそれに類する翻訳行為のうちは,このような「メッセージ からコード」を引き出そうとする暗号解読か,それに近いものであったと考えられる. (例 えば,杉田玄白の『蘭学事始』に描写されているようなオランダ語翻訳のような状況が考 えられる. )

3-3.品詞交換による訳の補填 しかし,もし「言語」がその活動を大昔に途絶したことによって翻訳の困難さが生じ, さらに「先行訳」のない状態から意味を割り出さなければならないとすれば,その困難は, 次のナイダによる解決策では,乗り越えることは全く出来ない.

58

同様の立場から, 「雪のように白い」というのも,もし翻訳語で読む人びとが雪になじ みがなく, 「大白ウサギの羽毛のように白い」という句で,きわめて白いものは何でも 呼ぶのであれば,その句を用いて訳出されることになろう. (成瀬訳)30 この場合,対象となる語が生きた言語に存在するので, 「雪」について知らぬ言語があった としても, 「雪」の持つ性質について話者に直接聞いて確認することが出来る.しかし,話 者が途絶した言語 A の語 X の意味が分からなくなった場合,似通った性質を持つ他の言語 B の語 Y で置換可能か否かを認知するための手段を,完全に喪失することになる. すると,翻訳家や解釈者達の意識は,語の意味を明らかにするために,どのように働く と考えられるだろうか. 例えば,イザヤ 35:1 と雅歌 2:1 の同じ habatselet に対し「ユリ」と「花」という二つ の訳語を持つことになった点を思い起こしてみよう.そこでは,下記のような品詞交換 (changing parts of speech)の操作が存在している(下記に,形式意味論におけるタイプ理 . 論に基づく解釈を併記した 31) a)nqe/w (to flourish) →

a)¥nqoj (something to flourish)



<, t>

述語(モノ e の集合) →

述語の集合(述語を項に取って命題が完成)=名詞句

このような品詞交換による「推論」が可能なのは,下記のような比喩構造が存在してい ることによる.まず,この雅歌 2:1 の後半部分は明らかに主語-述語間の選択制限の違反 が認められることから,A=B で対置できる連辞的(copulative)な隠喩(metaphor)と なっているというということである.なお下記において「←(*)→ 」は,選択制限違反の 存在を示している 32.

’ani (私)



habatselet (x)



・・・・雅歌 2:1 前半



[+ human] ←(*)→ [- human] [- plant] ←(*)→ [+ plant] ∥

’ani (私) =



shoshanah(ユリ)

・・・・雅歌 2:1 後半

つまり,人間(human)である「私」が habatselet あるいは shoshanah という「植物」 (plant)の「種類」ないし「部位」であると表現されていることから選択制限の違反が存 在することが明白であり,隠喩(metaphor)の関係であることが分かる. シグマ

Jean Dubois が筆頭となっている研究集団「グループ µ」は,提喩(synecdoche)を「 Σ

59

パイ

様式」と「Π 様式」に分類をしている

33.この区別に基づいてウンベルト・エコは,この

区別をそれぞれ「選言型」と「連言型」と解釈しており 34,それに倣うと,翻訳者たちは 次のように訳語選択を展開させたと推測できる. シグマ

Σ 型特性に則った訳語の展開(=選言型=「種類」による訳語決定) 植物 = バラ∨クロッカス∨スイセン∨ ・・・

パイ

Π型特性に則った訳語選択の展開(=連言型=「部分」による訳語決定) 植物 = 花∧つぼみ∧球根∧ ・・・

もちろん,Π 型に倣うと下位語は「ユリ」など「球根」を部分としてもつ「植物」に限 定されることになる.従って, 「バラ」という選択が「誤訳」であるとして除外される.し かし,このような二種の知識体系が存在していることが,不明である語の意味を推定する 場合に,植物(plant)という解釈の制限内での多様な訳語を生んだ原因であり,同時に「花」 という訳語を選択させた制限の効果も持っているといえる. 今後も展開されるであろう雅歌の諸翻訳においても,この二種の体系に基づいて訳語の 推測が行われ,実際の翻訳で使用されると予測される.

3-4.翻訳における「辞書」の機能 翻訳の問題で,忘れられがちなのが,辞書の意義と翻訳への影響である. これら辞書が翻訳理論上どのような意義を持つのかという点に関して,Nida(1964)によ っても重大性が指摘されていたが,下記のように簡単に触れられるに留まっている. 更に,理解を要するもっと重大なことは,英語を話すなみの翻訳者がギリシア語やヘ ブライ語の原典について身につけている知識のほとんどすべては,英語で書かれた辞 典や文法書を通して得られたものである,ということである.かくて,媒体をなす言 語は,翻訳家がそういった「言語上の汚染」を避けようと,いくら望んだところで深 甚な影響を与えずにはおかないのである. (成瀬訳)35 このように Nida(1964)が「辞書」に関心を寄せたのは妥当であるが,辞書が翻訳で錯誤 を生じる要因の一つであるという認識に留まっている. しかし,問題はもっと複雑である.なぜならば,現実には,単なる「汚染」のみならず 「汚染の再生産」が行われ続けているからである.まず私たちは,その辞書自体が独自の 歴史をもち,かつ聖書翻訳の場合には,種々の古典テクストそれ自体が「レクシコン」の 素材だったことに注目しなければならない. グロス(gloss)とは,本文批評学の専門用語としては, 〔単語や語句の〕説明のため の欄外註を意味する.欄外註の使用は古典時代にまでさかのぼる.古典時代には,欄 外註は特にホメロスの詩の中にあるような廃語,方言,あるいは外来語の意味をギリ 60

シア(語)の学徒たちに説明するために用いられた.やがてこれらの註が収集され, ある著者の作品を読む際に用いるための一種のレクシコン(語彙集)の形で刊行され た. (土岐訳) このようなレクシコンがさらに大掛かりな辞書編集の作業に発展したと,メツガーは説明 している 36. このように,テクストを読む際には意味部門のうちの「辞書」を基にして,文の理解が 行われるとする理解があり,カッツ Jerrold J. Katz による説明は次の通りである. このことは,意味部門に次の二つの下位部門があることを意味する.すなわち,その 一つは辞書(dictionary)であり,これは言語における一つ一つの語についてその意 味表示を提供する部門である.もうひとつは,投射規則(projection rule)の体系で あり,これは,辞書で与えられている文中の語の意味の表示から出発して,その文中 の語より上位のすべての構成素に対して意味表示を投射する組み合わせ機構 (combinational machinery)を提供する部門である.辞書と投射規則をある文に適 用した結果(すなわちその文に対する意味部門の出力)を意味解釈(semantic interpretation)と呼ぶことにする. (沢田訳)37 このカッツの辞書の概念に「百科事典」という概念を加え,新たなテクストにおける意味 論を提唱したウンベルト・エコの下記の言葉を見てみよう. ・







見てのように,第一段階では,基本辞典―出版されている辞典(各表現に一連の内容 ・



を対応させている辞引)におけるごく普通の意味でのそれ―が存在する.すでに見て きたように,最勝義[sic.;筆者注:おそらく「最小義」の誤植]での百科事典は,基本 辞典よりも無限に豊富な何かである.他方,基本辞典は,ある形態意味素を誇張した り麻痺させたりするようにわれわれを導くには,重要なものである. (谷口訳)38 もし,ある単語に本来ないはずの定義が紛れ込んだとしたなら,それを用いるテクスト 翻訳家たちは,その単語を本来ないはずの定義を用いることによって,本来の意義を「麻 痺」させることになる.そして,翻訳テクストに生じた「麻痺」は後の翻訳テクストに影 響し同じ語を「麻痺」させてしまう.この辞典に生じた麻痺の基を,テクストに対しても 辞書に対しても,再生産する仕組みは,翻訳者が「先行する翻訳」に頼るという方法その ものにあったのである. わからない語の意味を近隣言語との類似性から歴史的に類推し,判断するという比較言 語学的手法は,近代の「印欧語族」の発見以降に急速に組織化されて発達した科学的方法 であり,古代には存在しなかった.また,たとえこの方法を使ったとしても,なお「あい まいさ」 (ambiguity)を十分に排除できない.従って,比較言語学的な方法が存在しなか った時代や,なお批判的な研究によっても「あいまいさ」を感じる場合には,先行訳に頼 らざるを得ないことになる. このような翻訳の形成とその翻訳の適否が批判される過程を Nida and Taber(1969)は 61

下図のように図示している. なお, 下図において, S は source, R は receptors, M は message を表している 39.

重要なことは,聖書翻訳史においては Receptor Language における「翻訳者」 (Translator) たちは,同時に先行する翻訳の適否を評価する「評価者」 (Critic)でもあることである. つまり,このモデルが「通時的」に多重化したのが,聖書翻訳史であると言える.この枠 組みの中に,辞書の系譜も入っていることが問題の複雑さを産んでいる. 辞書はそれ自体が,そもそも歴史的生成物であるテクストによって生成されてきたもの であり,時に過ちを含む可能性がある.そして,テクストの翻訳に多重に利用されるたび に過ちが再生産されたのである.さらに,辞書がその後の辞書作成にも影響し,テクスト への利用はその記載事項の内容の過誤をさらに正当化させる.このようにして「誤訳の再 生産」が生じ続けていくと考えられる.

4.まとめ 本研究におけるここまでの分析によって,欽定訳聖書に至る先行訳相互の関係は下記の ような翻訳理論上の問題へと整理できる.

① 「言語の死」による,語と意味をつなぐ「コードの死」の発生. ② 「品詞交換」(changing parts of speech)による訳語の作成. ③ 語源訳の妥当性. ④ 「辞書」の形成過程と翻訳での意義の再生産. ⑤ 既に決めていた他の箇所の訳からの逆算での訳語決定の可能性.

これらの問題は,聖書以外の翻訳行為においても生じる.従って,聖書以外の翻訳を論 ずる際にも,重要な論点となるだろう.

注 62

* 本論文はテクスト研究学会第12回大会での口頭発表に基づき作成されている.口頭 発表の際に問題点をご指摘いただいた諸賢に深く感謝申し上げたい.同発表および本研究 は修士論文 Satoshi Mizota. Origin of 'Rose of Sharon' : An Analysis of Various

Translations Having a Bearing on The Authorized Version Text. Dissertation for MA: Aich University, 2008 における研究を発展させたものである.なお,本文中で使用された ヘブライ語音写は,汎用性を考慮し The SBL Handbook of Style: For Ancient Near

Eastern, Biblical, and Early Christian Studies. Edited by Patrick H. Alexander et al. Massachusetts: Hendrickson, 1999 の General-Purpose Style によった.

1. William Rose Benét ed., The Reader's Encyclopedia: An Encyclopedia of World

Literature and the Arts (London: G.G. Harrap, 1948), 948. 2. Wilhelm Gesenius

ed., A Hebrew and English Lexicon of the Old Testament:

Including the Biblical Chaldee (trans. Edward Robinson; Boston, 1882), 292-93. 3. Theophile J. Meek, “Intro. and Exegesis,” in The Song of Songs (vol.5 of The

Interpreter's

Bible;

ed.

George

Arthur

Buttrick

et

al.;

New

York:

Abingdon-Cokesbury Press, 1956), 112. 一方で,雅歌 2:1 後半の shoshanah について は,セム語族に共通する語根 sh-w-sh はユリを意味することは,今日でもセム語族のア ラビア語では‫ن‬DDDDD‫ سوس‬sausan (or sūsan)がユリを指すことからも,比較言語学的にほぼ 確かであると思われる. 4. 最近の J. Cheryl Exum, Song of Songs: A Commentary (Louisville: Westminster John Knox Press, 2005), 113-14 においても球根植物を指定する議論自体の大枠はなん ら変わっていない. 5. “The Translators to the Readers,” in The Holy Bible: An Exact Reprint in Roman

Type, Page for Page of the Authorized Version Published in the Year 1611 (Oxford University Press: 1911; repr. Tokyo: Kenkyusha: 1985)を参照せよ. 6. Brooke Foss Westcott, A General View of the History of the English Bible (London: Macmillan, 1905), 255-57. 7. Deutche Bibel. Band. I (in WA: D. Martin Luthers Werke: Kritische Gesamtausgabe. 65 vols. Weimar: Verlag Hermann Böhlausn Nochfolger, 1883-1966), 632-9 を参照. 8.この入門書の中の巻末語彙集(glossary)では,「habatselet: Rosa. flos. Canticorum secundo. Ego flos campi. (バラ.花.雅歌2章.私は平原の花です:筆者訳) 」と定 義されている.Johannes Reuchlin ed., De Rudimentis Hebraicis (Pfortzheim: 1506), 161. 9. Johannes Reuchlin, “Gutachten über das Jüdische Schrifttum,” in Pforzheimer 63

Reuchlinschriften Bd.II. (ed. Antonie Leinz-v. Dessauer; Konstanz: J. Thorbecke, 1965), 61. 10. WA, Brief Band. I., 33-6. 問題の箇所は下記のようになっている.“Igitur si es lilium et rosa Christi, scito, quoniam inter spinas conversatio tua erit;” (もしあなたがキリ ストのユリ(lilium)でありバラ(rosa)であるなら,あなたはイバラ(spinas)の中 に住むことになるであろうと知っておかねばなりません(筆者訳) ) 11. WA, Schriften Band.VII., 615ff. 12. Origenis Hexaplorum: quae Supersunt sive Veterum Interpretum Graecorum in

Totum Vetus Testamentum Fragmenta (ed. Fridericus Field; Hildesheim: Georg Olims, 1964), 2:499. 13. この kalu/kwsij の語根である ka/luc は名詞だが,元の動詞は kalu/ptein(包む) である.すると,ka/luc という名詞は「包み込まれたもの」が原義であろう.ラテン語 にも calyx として「借用」されてもいるが, 「つぼみ」 , 「芽」 , 「果物の皮」 , 「卵の殻」 , 「貝殻」などの意味は共通しているものの,ギリシャ語に見られるような「バラ」とい う意味の派生はない.ラテン語の借用については,A Latin Dictionary: Founded on

Andrews' Edition of Freund's Latin Dictionary (ed. Charlton T. Lewis; Oxford: The Clarendon Press, 1879), 274. 14. Hiero. Comm. Isa. X, xxxv, 1-2 (X, 16). 15. M・ヘンゲル, 『キリスト教文書としての七十人訳:その前史と正典としての問題』 (土 岐健治・湯川郁子 訳,教文館,2005 年) ,33-34 頁. 16. Philip S. Alexander trans. and ed., The Targum of Canticles (vol. 17A in The

Aramaic Bible; Minnesota: The Liturgical Press, 2002), 42, 96. 17. 主には,セム語族に接触する印欧語族である古ペルシア語*wrda-(varda)から r(o/don が借用されたとする見解と,古ペルシア語から印欧語根*wrdho-(刺のある木)へと遡 及する見解の二つが存在するが,いずれも古ペルシア語からアラム語に借用されたと主 張する.Walter W. Skeat ed., An Etymological Dictionary of the English Language (New ed.; Oxford: Clarendon Press, 1968), 524 お よ び , Ernest Klein, ed., A

Comprehensive Etymological Dictionary of the English Language (Amsterdam: Elsevier Bub., 1967), 2:1537 を 参 照 せ よ . 近 年 で は Edward Lipiński, Semitic

Languages Outline of a Comparative Grammar (Leuven: Uitgeverij Peeters en Department Oosterse Studies, 1997), 560-61 が,女流詩人 Sappho(B.C.7世紀)の作 品中のバラを表すアエオリス方言 bro/don と,アラブ北部に古くからある w-r-d のセム 語根を持った人名を根拠に,地中海地方に共通の起源を求めている. 18. Hesychii Alexandrini Lexicon: Recensuit et Emendavit (ed. Kurt Latte; Munksgaard: Hauniae, 1953-1966), 2:404. 19. Ursula Hagedorn ed. Das sogenannte „Kyrill’-Lexikon in der Fassung der 64

Handschrift E (Codex Bremensis G 11) 1st. ed., 2005 : VII. Kölner Universitäs -Publikations- Server: Eingang zum Volltext. Lexikon des Kyrillos (E): Dokument 1. 24.

Oct.

2007


Hagedorn_Kyrillos_Hauptdatei.pdf> 167. 20. 『ホメーロス:世界文学大系1』 (高津春繁・呉茂一 訳,筑摩書房,1961 年) ,389 頁. 21. Scholia Graeca in Homeri Iliadem (Scholia Vetera) (ed. Hartmut Erbse; Berlin: Walter & Gruyter, 1975), 4:514-515. 22. Gilles Dorival and Marguerite Harl and Oliver Munnich, La Bible Grecque des

Septante: Du Judaïsme Hellénistique au Christianisme Ancien (Paris: CERF, 1988), 111. 23. Lexicon graeco-latinum (ed. Johannes Scapula;Basel, 1665), 696. 24. 高津春繁「死語」 . ( 『世界大百科事典』第十巻,平凡社,1965 年) ,137 頁. 25. The Jewish Encyclopedia (ed. Isidore Singer; 12 vols.; New York, 1925), 6:226-29. 26. 図に関しては Jeremiy Munday, Introducing Translation Studies: Theories And

Applications (New York: Routledge, 2001), 40 に掲載のものを用いている. 27. ナイダ,テイバー,ブラネン, 『翻訳―理論と実際』(沢富春仁・升川潔訳,研究社, 1973 年) ,47-49 頁. 28. ロマーン・ヤーコブソン, 『一般言語学』 (川本茂雄 監修,みすず書房,1973 年) ,188 頁. 29. ヤーコブソン,前掲書,11 頁. 30. ユージーン・ナイダ, 『翻訳学序説』 (成瀬武史 訳,開文社,1964 年) ,230 頁. 31. 白井賢一郎, 『形式意味論入門』 (産業図書,1981 年)133-146 頁. 32. 山梨正明, 『比喩と理解:認知科学選書 17』(東京大学出版会,1988 年),15-23 頁. 33. J. デュボワ他(=別称「グループ µ」),『一般修辞学』(佐々木健一・樋口桂子 訳,大修館, 1981 年),194-97 頁. 34. ウンベルト・エコ『テクストの概念:記号論・意味論・テクスト論への序説』 (谷口勇 訳,而立書房,1993 年)76-94 頁. 35. ナイダ, 『翻訳学序説』 ,215 頁. 36. B・M・メツガー, 『図説ギリシア語聖書の写本:ギリシア語古文書学入門』 (土岐健治 監訳,1985 年) ,48-50 頁. 37. J・J・カッツ, 『言語と哲学』 (沢田祐司監修,沢田祐司訳,大修館) ,125-52 頁. 38. エコ, 『テクストの概念』 ,162 頁. 39. Eugene A. Nida and Charles R. Taber, The Theory and Practice of Translation (Leiden: Bril, 1969), 22-23.

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編集後記

テクスト研究学会の学会誌『テクスト研究』の第10号をお届けします.第10号には,イギリス文学 研究1篇,アメリカ文学研究1篇,日本文学研究1篇,ギャグ研究1篇,その他1篇の計5篇の投稿が ありました.第10号では,論文ごとに3名の査読委員を委嘱し,ブラインド審査を行っていただきま した.審査結果は観点別に得点で出され,3名の査読委員の評点の合計で採否を決定しました. 審査結果は以下の通りです.

応募論文総数

修正条件付採用

辞 退

不採用

5

4

1

1

「修正条件付採用」の論文については,査読委員の意見に従って修正を求め,最終的に採用と決 定しました.また,第9号への投稿で修正条件付採用となった論文も,第10号には1篇掲載されて おります. 前号に続き,採用された論文はいずれも力作ぞろいです.また,投稿者の多くの方から,査読委 員が各論文に付したコメントに対するお礼の言葉もいただいております.本学会では,査読するだ けでなく,その後の指導的役割についても意識して活動を行っています. ご投稿くださった方々,ならびに本誌の刊行まで多大なご尽力を賜りました編集顧問・編集委 員・査読委員の各位にお礼を申し上げます. 第11号もまた,テクスト研究の各分野から,多くの投稿が寄せられるよう願っております. (編集委員 鈴木章能)

『テクスト研究』第11号原稿募集 学会では,『テクスト研究』第11号の原稿を募集しています.文学・言語学・哲学・美学など,広 義のテクスト研究に関する論文をぜひご投稿ください. 原稿締め切り

2014年9月30日

第11号刊行予定

2015年2月末

詳細は,学会ホームページ(http://textstudies.web.fc2.com/)をご覧ください.

66

『テクスト研究』 第10号

編集顧問 深澤 俊(中央大学名誉教授) 杉本 龍太郎(大阪女子大学名誉教授) 富山 太佳夫(青山学院大学)

編集委員長 清水 伊津代(近畿大学) 編集委員 石川 慎一郎(神戸大学) 向井 秀忠(フェリス女学院大学) 倉林 秀男(杏林大学) 中村 嘉雄(宇部工業高等専門学校) 鈴木 章能(甲南女子大学)

査読者一覧(五十音順) 石川 慎一郎(神戸大学) 伊藤 佳世子(京都大学) 井上 義夫(一橋大学名誉教授) 梅原 大輔(甲南女子大学) 大桃 陶子(藤女子大学) 近藤 康裕(東洋大学) 佐藤 裕子(フェリス女学院大学) 多賀谷 悟(梅花女子大学元教授) 武田 美保子(京都女子大学) 土田 知則(千葉大学) 能勢 卓(京都聖母女学院短期大学) 羽澄 直子(名古屋女子大学) 向井 秀忠(フェリス女学院大学) 羅 時光(蘇州科技学院)

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『テクスト研究』第10号 ISSN 1349-7162 2014 年2 月28 日刊行 テクスト研究学会 事務局 甲南女子大学文学部英語文化学科鈴木研究室内 〒658-0001 兵庫県神戸市東灘区森北町6丁目2-23

text10.pdf

balance. Both in England and Scotland, emigration and the Great War made matters ... (1923), the two women running a farm are known as Land Girls, the women who ... makes clear why they failed to realize their visions, focusing on their masculinization. and implied lesbianism. Page 3 of 68. text10.pdf. text10.pdf. Open.

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